よくよく山口県と滋賀の両県の地図を眺めると、共に大津がある。山口県の北部に大津郡(油谷湾から仙崎あたり、現在の長門市、和名抄に大津郡と記載)があり、滋賀県の琵琶湖西岸に大津市(旧大津宮)がある。
日本海沿岸を通って行き来していたとすると、日本書紀では琵琶湖西岸に蟄居していた様に書いているが、実は山口県の大津あたりに行宮があり、朝鮮半島情勢を監視していた。
向津具半島、油谷湾から長門市あたりにを最近まで、大津郡と呼んでいた。長門市仙崎は戦後、朝鮮、満州からの引き揚げの受け入れ港にもなった良港であり、また油谷湾には帝国海軍連合艦隊が結集したこともある。向津具半島の先端に楊貴妃の漂着地伝説があるくらい、大陸との交流が容易な場所でもある。ここらから、白村江の戦いに参加した軍船の寄港地と空想することも可能である。ちなみに、さらに遡ると向津具半島は向津大済と岡県主熊鰐が神功皇后に紹介していた。
その中心地にあった長門深川廃寺は長門国最古の寺跡で白鳳時代ころの創建と推定されている。長門市の中心部深川地区は、長門山地を源とする深川川に沿った自然堤防と河口の三角州が形成した肥沃な土地から、古代より稲作地として開発され、長門国大津郡の中心地として発達していた場所だったと云われています。この深川一帯は古代より条里地割(碁盤の目)が施行され、その遺構が発見されています(参考)。
長門深川廃寺は渡来人の町、日置郷が出来た7世紀中頃に創建され、9世紀初め頃に姿を消したと言われているが、朝鮮式山城の高安城の廃止、大宰府の8世紀後半の一時停止に続くものになっており、まさに白村江の敗戦後に対応した時期に存在した。
昭和50~51年度に発掘された長門深川廃寺(長門市)出土の瓦を中心に、白鳳時代から奈良時代中期にかけての伽藍配置や塔、金堂の様子を紹介する。特に金堂の軒丸瓦は、『出雲国風土記』に記載がある来美廃寺の軒丸瓦と酷似し、長門深川廃寺の建立者が日置氏であった可能性を示唆する貴重な資料です(参考)。
大津郡日置(長門市日置町)には古代氏族日置氏が最先端都市を建設していた(参考)。
参考
② 日本書紀には667年に遷都した天智天皇の近江の都を「近江京」と表記しているが、平城京や平安京のような条坊制が存在したことを示す記載はないほか、特別行政区としての「京域」の存在も確認できない。このことから、近江京とは「おうみのみやこ」の意味であると考えられる。明治時代に喜田貞吉(歴史学者)が条坊制の存在を信じて文献史料にはみえない「大津京」という語を用いて以降、歴史地理学や考古学の研究者がこの語を用いるようになった。近年では条坊制の存在を否定する研究者までがこの語を用いているためその概念や定義は極めて曖昧となり、研究に混乱をきたしている(wikiより)。
③ 702年当時、長門国国衙は長門国大津郡にあり、柿本人麻呂は国司守として大津に赴任したと言う説がある(参考)。三輪高市麻呂と柿本人麻呂を同一人物と見做すことで、二人の歌から次の解が得られる(参考): 702年当時まで、長門国国衙は日本海の朝鮮半島を睨む阿武郡か大津郡にあると思われます。穴門(後の長府)に移るのは、平城京時代に朝鮮半島及び唐との緊張関係が緩み、長門守の代わりに鋳銭司が設置された頃でしょう。国際緊張下での新羅や唐に対する防衛ラインとしては、九州太宰と山陰阿武(大津)の位置が軍事的にふさわしいと思います。ただ、国防の重要性が薄れ、また国営の銅鉱山開発も軌道に乗ってきていれば、長門守の重要性が国防から銅鋳銭に軸足を移したのかもしれません。それで後任の任官者の官位が鋳銭司に相当する従五位上であり、さらには長門守が一時廃止され、鋳銭司が置かれる遠因になったのでしょうか(参考)。
④ 滋賀県の和邇
柿本人麻呂の一族、和邇氏は近江国の大津宮近くに本拠地を置いた。近くに同族の安曇氏(元、博多湾の志賀島出身)が居住しており、本拠地の名前が志賀(滋賀)である。小野は小野氏の居住地域で、和邇氏の一派、遣隋使の小野妹子が有名である。
⑤ 琵琶湖の東岸は宗像三女神を奉ずる民が入植した。
⑨ 条里制地割の観点での比較(参考)