宗像大社の沖ノ島と琵琶湖の沖島 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

万葉集巻3-2439 3-2728 作者:柿本人麻呂
題詞: 寄物陳思
原文: 淡海 奥嶋山 奥儲 吾念妹 事繁
訓読み: 近江(淡海)の海 沖つ島山 奥まけて 吾が思ふ妹が 言の繁けく

この歌は、正しくは長門国大津郡と西方の宗像大社の沖ノ島を舞台とした歌であるが、白村江の戦いに敗戦で沖ノ島経由で渡来した百済遺民が入植した近江国(琵琶湖東岸)と琵琶湖の中に浮かぶ沖島(奥津島)を連想させている。

柿本人麻呂、山部赤人は白村江の戦いの時代を熟知し、百済遺民が渡来してきたルートと入植地について詳しく情緒的に歌を歌っており、百済人かも知れない!

{A58A66C1-D1DB-4F88-A9F5-F1C1BDB6D6FD:01}
長門国大津郡と沖ノ島

{F0546D5D-D174-4E8A-A267-F1EAF0EF057B:01}
琵琶湖の沖島


参考




{61505A2E-AF78-42A8-870A-561F59A0D462:01}
当時、大海人皇子(後の天武天皇)は宗像君徳善の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)を妻とし、高市皇子(654-696)をもうけた。当時の宗像大社と沖ノ島の重要性が理解できる。