琵琶湖に宗像の女神を祀った | 日本の歴史と日本人のルーツ

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琵琶湖南東岸に沖島と長命寺山があるが、この沖島には奥津嶋神社、長命寺山の麓には大嶋奥津嶋神社があった。祭神はそれぞれ奥津嶋比売命、大國主命・奥津嶋比売命であった。すなわち、琵琶湖東岸は宗像三女神を奉ずる百済遺民、湖上には宗像の海人族が入植した。

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奥津嶋神社、沖島

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大嶋奥津嶋神社、長命寺山南麓

奥津嶋神社の祭神、奥津嶋比売命は宗像大社の多紀理比売命であり、和銅5年(712年)に勅命を蒙った藤原不比等によって創祀された名神大社とされる。大嶋奥津嶋神社の祭神も同様で大國主命と多紀理比売命は夫婦であった。『三代実録』によると、貞観元年(859年)、従五位上の神階を賜ったとの記述がある。一説に大國主命ではなく、端津姫命ともいわれる。すなわち、宗像大社を琵琶湖に移した神社であった。

ところで、さらに南部に山口県下関市の地名を写した野洲(安岡)、蒲生野、豊浦があるが、ここら辺りは白村江の敗戦前後に渡来した百済人が669年に移された入植地であった。ここで推測するが、朝鮮半島から宗像の海人族の船で沖ノ島の海北道中経由で山口県下関に渡来した百済人が琵琶湖南東岸のまだ無名の地であった蒲生野に入植し、彼らの氏神として宗像大社の祭神を祀ったのであろう!

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沖島(沖ノ島に相当)、長命寺山南麓(赤印、大島に相当)

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八幡山南麓の日牟禮ハ満宮も応神天皇、神功皇后に加え、比売大神(宗像三女神)を祀っている。

八幡宮の創建は275年と言うが、691年、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われ、奥津嶋神社が矢張り藤原不比等の創建としており、この691年が実際の創建であろう!


参考

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1 野洲(安岡)、2 蒲生野、3 豊浦

琵琶湖西岸の大津宮に対応して、山口県長門市にかつて大津郡があった。

近江国の蒲生野は無名の未開の地であり、百済人が開拓した。




琵琶湖東北部の竹生島は市杵島姫命を祀っている。

大津宮から北、琵琶湖西岸は小野、和邇、安曇の地名があるが、みな海人族安曇氏の一族が植民した。

九州・宗像大社(むなかた)玄界灘に浮かぶ沖ノ島、大島と陸地にある田島の三社を総称して呼ぶ旧社格は官幣大社である。この三社は一直線上に結ばれており、古代から大陸と半島を結ぶ海上交通の要衝地であった。沖ノ島は島全体が御神体として祀られ、出土した多くの遺品は、国宝として田島の宝物館に展示されているそうである。かかる宗像大社は神功皇后と深い関係にあり、ここ近江も皇后とは縁が強く、又、沖島、大嶋・奥津島と同じ地名が見出されるのは偶然ではない。沖島を御神体として、大嶋・奥津島そして陸地の八幡山・日牟禮八幡宮が一直線上に並び、宗像大社の三社に相当する。沖島が琵琶湖を航行する船人達に御神体として祀られてきたものであろう(参考)。

対岸である西岸は大綿津見神を祀る安曇氏、和邇氏、小野氏の系統が植民し白鬚神社を創建した。湖面にある象徴的な鳥居が、沖島からの直線の延長上にある。


奥津島比売命は、沖の島に坐すという意味。別名の多紀理毘売命は航海の障害となる海上の霧。