江戸時代までの阿川村 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

毛利家の分家、阿川毛利家が萩毛利本家と独立して、長府藩の領地内の阿川から滝部(現豊北町内)に飛び地の様に存在した。村上水軍の末裔を家臣として対外貿易による利益の他に多々良製鉄の収入もあった。すなわち、長門郡大津郡阿川村(山口県下関市大字阿川)は砂鉄の産地であった。製鉄そのものは阿武郡の白須たたら鉄山で行われた。さらに金も採れたとか!

{D466436F-8A7B-47DD-ABC5-2245461C94C4:01}


参考



{2006390C-564A-46F0-A6DE-6647DAC15E01:01}


阿川村(近世) (山口県>豊北町): 江戸期~明治22年の村名。長門国豊浦郡のうち。萩藩領。先大津宰判に属す。村高は,慶長5年検地帳690石余,同15年検地帳1,376石余,寛永2年検地帳1,681石余,元文4年1,943石余(地下上申),「天保郷帳」1,978石余,「注進案」2,194石余,「旧高旧領」も同高。慶長5年検地帳では,田79町3反余・畑14町1反余,物成552石余。同15年検地帳では,田98町4反余・畑16町2反余,屋敷116・市屋敷61・浦屋敷34,浦浮役48石余,塩浜方1石余,市町と浦方を抱えている。嘉永3年の田149町余・畑47町9反余(注進案)。元禄元年に沖田で18町,文政2年に字新開で1町3反余,浦2町1反余が開作された。小村に,阿川市・野地村・前河内村・後河内村・平畑村・土井村・細井村・本浦がある(地下上申)。家数・人数は,元文4年185・808うち男392・女416(同前),嘉永3年341・1,643うち男868・女775(注進案)。同年の家数のうち,本百姓132(浦方51)・門男百姓209(浦方59),家数の内訳は農民185,漁民61,諸職人・諸商人95と分かれ,職人札は14(家大工8・木挽5・船大工1),小商人は63(商人61・綿屋2),紺屋4,ほかに酒屋株3か所があった。高札場や宿駅が置かれ,駅には人足4・馬2を常備。津出蔵は阿川毛利氏領の津出蔵が江尻,吉敷毛利氏領の津出蔵が塩浜にあったので,廻船業も栄え,20石積から135石積まで16艘があり,大漁船29艘・小漁船16艘もあった(注進案)。漁民は引船(問屋株)と被官子に分かれていたが,嘉永3年阿川毛利氏の仕組に際し,魚問屋9軒が永代株を願い出たことから縄船船頭と紛糾し,橋本徳三郎(のちの浦庄屋)の斡旋によって決着した。河内村の中原では安土が採れ,明和年間には萩焼の原土となった(先大津郡産物名寄帳)。飯の山窯は阿川毛利氏の御用窯で,萩小畑焼の蔵崎五郎左衛門が毛利?徳に仕え,その子貞之進が阿川に移って始めた。原土は付近のものを用いたが,数年のうちに廃業し,明治3年に村内有志が平畑窯を再興した(豊北町史)。大音金山は江戸初期から行われ,寛永9年の牛庵覚書(益田玄蕃)に,萩城本丸御納戸蔵金に,阿川砂金4貫400目,大判100枚分とあり,当職の榎本遠江の御仕置銀蔵納目録に阿川砂金3貫40目9分とある。阿川山砂鉄は野地で採れ,アコメ(赤鉄鉱)と呼ばれた。文化14年には阿川浦の海が濁り,漁ができないとの理由で採取の中止を申し出た。しかし,文政12年には阿川村小都合庄屋の善右衛門は河原御手山(油谷【ゆや】町黒滝)手代となり,慶応2年には同人と小都合元手伝産物方兼帯の七郎兵衛は製鉄所御用達に任命され,阿川の山砂鉄は阿武【あぶ】郡山須山(阿武町惣郷)の藩の製鉄所に送られた(注進案)。



美しい街並みの武家屋敷(参考)