吉田松蔭の教えのルーツは下関市豊北町大字阿川 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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阿川毛利家は朝鮮半島と密貿易などを行っており、海外情勢については日本では最も熟知していた!吉田松蔭の母の実家の村田家は阿川毛利家の家臣とか!元々、尊王攘夷の地でもあった!

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阿川毛利家の館と学校、墓所

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阿川毛利家の学校、時習館跡

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⭕️は阿川毛利家の地、滝部は下部中央

阿川毛利家(あがわもうりけ)は、毛利氏の一門、家老のひとつ。現在の山口県下関市豊北町大字阿川・滝部を知行していた。禄高7391石、家臣185人を抱えていた。辺境の地でありながら多くの家臣を養えたのは、北前船と対朝鮮半島交易(密貿易)で藩を支えたのであろう(参考)。


参考

あるフェースブックをそのままコピペした:

本日、「花燃ゆ」文子姉妹と滝部「村田家」と題しまして郷土文化友の会会長の熊井先生の講演を聞いてまいりました。熊井先生は先日プレス発表で「吉田松陰の母は滝部出身である」と発表されました。

大変興味深い話ですが、私自身も色々調べてきたなかでそういった史実は確認できなかったので、これを機会に是非先生のお話を聞こうと思い出席させて頂きました。


(ぶっちゃけオカルト位にしか思っていなかったです(;^ω^) )


講演のなかで先生がお話されることは私が調べた内容と全く同じで、「?」となったのですが、先生自身も松蔭の母「滝子」は萩の中津江で生まれたといわれておりました。じゃあ何故?


母「滝子」の父である村田右中は阿川毛利の家臣でありました。実はこの村田右中の実家が滝部の寺地にあったわけです。


村田右中は若い頃より、阿川毛利家の下屋敷の留守居役?番人をしていました。この下屋敷は萩にあり村田右中も役目のため萩に暮らしており、そのときに生まれた子が、松蔭の母「滝子」であります。


明治25年3月に出版されました「婦人の鏡」という本に杉滝子(村田滝子)実伝とし取り上げてあるのですが、その中にも生まれは萩城下と載っております。


後に村田右中は滝子20歳が杉家へ嫁いだ際、松蔭の生家で有名なあの「樹々亭」を購入し滝子夫婦を住まわせております。熊井先生がおっしゃるには、この時村田右中は54歳。お役目も果たし、これを機に萩の家を売り払い実家のある滝部寺地へ息子の猪兵衛と戻り、農業をしながら暮らしたと。


この話は語ると3時間くらいになるので、かなり割愛して記してみましたが、今回、村田家の家計図も出して頂きました。これは村田家が滝部の安養寺門徒であったことから、お寺の過去帳より調べたのでしょう、間違いないと思います。確かに村田家は滝部寺地に存在していました。


ただし、滝子の出身ではなく「吉田松陰のじいちゃんは滝部出身だぜ!」ってことですね!(参考)。



下関市豊北町大字神田の地は古来から尊王攘夷の軍団の地であった


下関市豊北町大字神田肥中は江戸時代まで対外密貿易の窓口であった


吉田松蔭が最初に国防調査した地は北浦海岸


下関市大字蒲生野の妙蓮寺は明治維新で僧侶隊を出している


砂鉄の産地でもあった