作業のために徴用されたのは福岡藩士11人。
浦(港々)から出た者8人。
市(博多・福岡)から出た者24人、
縣(郡)から出た者18人。
溺死。
浦(港々)から出た者8人。
市(博多・福岡)から出た者24人、
縣(郡)から出た者18人。
溺死。
対馬海流と季節風を考慮すると、冬季に朝鮮半島を出発して冬の安定した季節風を使って対馬海峡を渡り、夏季に日本から朝鮮半島に夏の季節風で戻るのが効率的な渡海であった!
朝鮮通信使を護衛する毛利水軍(参考)、瀬戸内海の海賊であった村上水軍七家は大津北浦地域へ転封され、阿川毛利家の家臣としたのは、大内一族の築いた海上権の保護が、とりもなおさず毛利家の富の源泉でもあったからである。
参考
元寇の文永の役では撤退の途中に暴風雨に遭遇した。弘安の役でも日本の対馬に押し寄せたのは、5月21日です。台風が来たのが8月1日(日本側は閏7月1日)です。つまり、戦闘を開始して、2か月+10日も海上にいて必ず来襲する台風から逃れることができなかった(ヤフー知恵袋)。
◆◆『唐征絵伝』5巻 鎌倉時代13世紀の作。唐招提寺蔵
唐招提寺の開祖鑑真和上が、中国より日本に渡来して戒律宗を弘める次第を描いた作品。絵は六郎兵衛蓮行の描いたもので、永仁六年(1298)に鎌倉極楽寺の忍性が施入したもの。この中に栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)らが遣唐使船で渡海する場面がある(参考)。