外国使節は江戸時代まで天候を予測出来ない夏季に対馬海峡を渡海させられていた! | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

享保4(1719)年7月24日、福岡県の相島で台風の被害で61人が亡くなった。61人は朝鮮通信使が相島に立ち寄るための受け入れ準備をしている最中だったという(参考)。これを知らない通信使は壱岐から相島に渡ると狼煙で知らせて来たという!当時、夏季の不安定な気象を予測できなかった。

作業のために徴用されたのは福岡藩士11人。
浦(港々)から出た者8人。
市(博多・福岡)から出た者24人、
縣(郡)から出た者18人。
溺死。

対馬海流と季節風を考慮すると、冬季に朝鮮半島を出発して冬の安定した季節風を使って対馬海峡を渡り、夏季に日本から朝鮮半島に夏の季節風で戻るのが効率的な渡海であった!

{7ED4C894-B11B-4DA1-B465-46614A378DC2:01}

さらに、朝鮮通信使は往復とも対馬・壱岐・相島・赤間関を利用せざるを得ないように、各島に接待施設を用意していた!朝鮮通信使の公式渡海ルートは嫌がらせ同然である。

{B69EFF4A-477B-40AB-9E21-C72839E8CFF5:01}
朝鮮通信使の船

{FEB26D35-7C2B-419C-A163-9B5044E8728F:01}
朝鮮通信使を護衛する毛利水軍(参考)、瀬戸内海の海賊であった村上水軍七家は大津北浦地域へ転封され、阿川毛利家の家臣としたのは、大内一族の築いた海上権の保護が、とりもなおさず毛利家の富の源泉でもあったからである。

{FCCA9B7D-8BCF-4B3D-A5EC-F7B62A56CA46:01}
17世紀の菱垣廻船(参考)

当時の朝鮮半島と日本列島の間の効率的な渡海ルートは、角島付近の肥中港を基地とする長州藩の密輸ルートであった(参考)


参考

元寇の文永の役では撤退の途中に暴風雨に遭遇した。弘安の役でも日本の対馬に押し寄せたのは、5月21日です。台風が来たのが8月1日(日本側は閏7月1日)です。つまり、戦闘を開始して、2か月+10日も海上にいて必ず来襲する台風から逃れることができなかった(ヤフー知恵袋)。


{FB6FDBF8-A725-4DDC-A8D6-337D12AD2E4E:01}
遣唐使では、日本から唐への航海では北西の風では無い風を必要とし、不安定な気象条件の夏季の5から7月に渡海していた(参考)。

{73DD5CA8-74FA-4B44-BF3C-FD385ADFE163:01}
遣唐使船

◆◆『唐征絵伝』5巻 鎌倉時代13世紀の作。唐招提寺蔵
 唐招提寺の開祖鑑真和上が、中国より日本に渡来して戒律宗を弘める次第を描いた作品。絵は六郎兵衛蓮行の描いたもので、永仁六年(1298)に鎌倉極楽寺の忍性が施入したもの。この中に栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)らが遣唐使船で渡海する場面がある(参考)。