★はじめに
海人(あま)とは、表記にいろいろあるが、ここでは汎称として海人(あま)と書き、特に、男性の海人を海士(あま)と書き、女性の海人を海女(あま)と書く。
海人とは海を主たる生計の場所とする人々を言うのであるが、海に関する職業と言ってもいろいろあり、職業分化が未発達な上古においては潜水漁法(素潜り漁法、追い込み網漁法)、釣魚、網魚、塩焼き、水上輸送、航海などに携わる人々全般を総称して海人と呼んでいたようである。海ばかりでなく、河川、湖沼で同様のことをする人も海人と言ったらしい。
しかし、後世は職業分化のためか、海人とは「海辺の一部に特殊な漁業集落をなして居住し、海中に潜り、または網や鉾などで魚介藻類を採取して生計を立ててきた漁民を言う」という見解もある。中世から現代の海人を言うのであろうが、古代の海人との関係は未詳という。
ここでは、まず、上古の海人について触れ、次いで、中世以降の海人について考えてみたいと思う。
★海人の発祥
一説によると、
「日本民族の形成過程のなかで、かなり明瞭にあとづけられるのは南方系であり、インド・チャイニーズ系とインドネシア系に大別されよう。前者は、古典にみえる阿曇(あづみ)系およびその傍系である住吉系漁労民で、中国南部の閩越(びんえつ)地方の漂海民の系統をひき、東シナ海を北上し、山東半島から遼東半島、さらに朝鮮半島西海岸を南下し、多島海、済州島方面を経て玄界灘に達する経路をたどったと推定される。後者は、宗像(むなかた)系海人と呼ばれ、フィリピン付近海域から黒潮の流れに沿ってバシー海峡、台湾、沖縄、奄美諸島などサンゴ礁の発達した島嶼(とうしょ)を伝って南九州に達したと考えられ、古典にいう隼人(はやと)系に属する。両系の種族が日本へ達した前後関係は明らかでないが、玄界灘で交差し、混血も行われたであろう」
という。
この説の主張者は柳田国男先生や埴原和郎先生も驚愕するような猛烈な「日本人南方起源説」論者のようで主張するところは詳らかでない。
まず、インド・チャイニーズ系などと言っているが、インドでは魚は一般庶民は食べず、漁民だけが食べていたようだ。漁獲量とは漁民の自家消費量のことである。日本ではそんな風習はなく、自家消費量に物々交換量も加味した漁業が最初から行われていたのではないか。そんな人たち(インド人)が中国南部(現在の福建省)まで行って、中国人に漁法を伝授したなんてほとんど考えられない。稚拙な漁法だったと思われる。釣り・定置網・簗(やな)・籠(かご)・銛(もり)など、どれにも該当しない方法だったのではないか。インド・チャイニーズ系には阿曇(あづみ)系およびその傍系である住吉系漁労民とあるが、これも疑問である。阿曇は原意は「海人津見」(但し、アツ・アヅは崖の意と言う異論あり)で、また、宗像は「海方」(但し、異説多し)という。いずれも海に関係した「氏」であり、また、地元九州にそれぞれ氏神として「志賀海神社」「宗像大社」がある。これに対し、住吉は「墨江」「住之江」(すみのえ)と書かれ、河川の漁師であり、上記には書かれてはいないが、有力海人族と言われる水沼氏は字義通り湖沼の漁師であろう。しからば、「阿曇と宗像グループ」と「住吉と水沼グループ」は別集団ではなかったのか。記紀執筆時には意味がわからなくなってみんな一緒くたになってしまったのだろう。「閩越地方の漂海民」と言っているが、日本では長崎県沿岸の「家船(えふね)」のことと思われるが、文献に出てくるのは正暦五年(九九四)頃からと言い、「大村郷村記」(延宝9年(西暦1681)4代藩主大村純長の代に編集に着手し、その後補正され文久2年(1862)第12代大村藩主・大村純熙の代まで約180年間を要して作成された)の瀬戸村の章に、「家船六十三艘。家船の起源は由緒があると伝えられるが、来歴ははっきりしない」とある。「閩越地方の漂海民」と長崎県沿岸の「家船(えふね)」とは少しばかり時代が違うのではないか。また、日本にやってくる経路も「東シナ海を北上し、山東半島から遼東半島、さらに朝鮮半島西海岸を南下し、多島海、済州島方面を経て玄界裁に達する経路をたどったと推定される」などと言っているが、こんな迂遠な経路は考えづらい。おそらく、今の上海、浙江省あたりから、直接、長崎県にやってきたのではないか。
また、インドネシア系と言うものに対して、「(インドネシア系は)宗像(むなかた)系海人と呼ばれ、フィリピン付近海域から黒潮の流れに沿ってバシー海峡、台湾、沖縄、奄美諸島などサンゴ礁の発達した島嶼(とうしょ)を伝って南九州に達したと考えられ、古典にいう隼人(はやと)系に属する」と宣っているが、隼人って薩摩隼人とか大隅隼人とか言って今の鹿児島県の人ではないのか。但し、肥前国風土記松浦郡値嘉郷の段に「此の嶋の白水郎(あま)は、容貌、隼人に似て、恆に騎射(うまゆみ)を好み、其の言語(ことば)は俗人(くに)に異なり」とある。値嘉郷は一般には長崎県五島列島の総称と解されているようだが、もし、隼人が九州北部にもいたとするなら宗像系海人が隼人であっても失当とは言えない。もっとも、「肥前国風土記」の筆者(太宰府の官人か)が隼人をどのように解しているかも問題ではある。
★大和朝廷成立後の海人
鎌倉時代には漁を専門とする漁村があらわれ、魚・海藻・塩・貝などを年貢として納めるようになった。
室町時代にはさらに漁業の専門化がすすみ、沖合漁業がおこなわれるようになり、市の発達や交通網の整備、貨幣の流通など商業全般の発達に漁業も組み込まれていった。
江戸時代には遠洋漁業がおこなわれ、また、上方で発達した地曳網による大規模な漁法が全国に広まるなど、漁場が広がった。
家船の模型