弥生時代の初期から貝のアクセサリーの交易は沖縄から北海道まで及んでいた。海人族は各地の産品と交換したことは疑い無い。すなわち、土着する農耕民に対し、文化の伝播、交流は海人族が主体であったようだ。すなわち、この当時から北前船はあったと言え、この貝のアクセサリーに当時の貨幣の役割が伺える。
さらに一歩踏み込むと、在来弥生人(元々の縄文人)と渡来系弥生人は文化、経済的に交流して弥生時代を作り、遺跡の出土品では縄文時代から弥生時代に連続して進化したと見えてもおかしくない。
海人族安曇氏、古代日本を代表する海人族、中国や朝鮮半島とも交易などを通じて文化的、人的な関連がある。最初の本拠地である北部九州の福岡志賀島一帯から拡大し、全国に移住した。渡来人の渡海プロジェクトを遂行した。武内宿禰が安曇磯良と同一神で安曇氏の長である。記紀に記載があり、「日本書記」の応神天皇の項には「海人の宗に任じられた」と記されている。さらに、住吉氏、宗像氏と共に、海人族が渡来人の渡海を助け、在来の縄文人、弥生人との交流を取り持ったのであろう(参考)!安曇氏は山東半島から朝鮮半島西岸を南下し、宗像氏は対馬海流を北上し、北九州あたりで交差したとか(参考)。
参考
図43は岐阜県大垣市の荒尾南遺跡の弥生時代の方形周溝墓の溝から、1996年に出土した広口壺に線刻されていた絵画である。3艘の船が描かれていて、中央の船は82本のオールを持つ大型船で、船の船首と船尾は反り上がって扇形に広がっている。中央と船尾には2本ずつ旗がなびいている。もしかするとこれは畳んだ帆かも知れない。この船の前後に小形の帆船が各1艘伴走しているように描かれている(参考)。前後の小型船の上に逆三角の帆の様な物が見えるが、もし三角帆なら風上にも進める江戸時代の打瀬船の様な船が弥生時代から既にあったことになる(参考)!
ヤフー知恵袋によると、、もちろん完全な向かい風だと無理ですが、熟練した乗組員が扱えば横帆船で風向きに対して40度、縦帆船なら45度程度までなら進ませることができます。風上に向かって進む能力を「切り上がり性能」と言い、その行為を「間切り」と言うのですが、ジグザグに進んでいきさえすれば、たいていの場合、たとえにじり寄るような速度であったとしても、どうにか前に進ませることができます。
広島県教育事業団埋蔵文化財調査室は17日、古代~中世の集落跡が残る御領遺跡(同県福山市)で、屋形(船室)付きの船が描かれた弥生時代後期の土器が出土したと発表した。船は国内各地や大陸と行き来した交易船の可能性があり、同様の絵では日本で最も古いという。土器や木板、銅鐸(どうたく)に描かれた弥生時代の船の絵は、全国で27例見つかっているが、いずれも1本の大木をくりぬいて造った丸木船や帆掛け船のような形だった(参考)。
古墳時代の船の線刻画には帆船が明確に描かれている(参考):