663年の白村江の戦いの敗戦後の緊張より増して、約60年後のことであるが、726年、大陸情勢が不安定となった。すなわち、渤海と唐の対立で、唐・新羅と渤海・日本との不安定な関係が生じた。
この時の対応は遣唐使と言う外交の再開と節度使と言う防衛体制の設置であった。そして、無防備だった山陰道にも防衛体制を敷いた。
663年の白村江の戦いの敗戦後の朝鮮式山城や大宰府防衛の水城の建設などは見せかけに過ぎなかったのが理解できる。
参考
金長孫の帰国と入替りに角家主が8月に帰国した。彼は疋田・渤海使にもまして、東アジア情勢について重大な情報をもたらした。
726年黒水靺鞨が、無断で渤海領を通過し、唐に使節を派遣した。唐がこれを契機に黒水州を設置。これに渤海が反発し、国王の弟大門芸に靺鞨を攻撃させたが大門芸は兄王と対立し、唐に亡命してしまう。
732年渤海国王は山東半島の登州を攻めさせ、渤海・唐の対立が強くなる。渤海の半島南下を警戒する新羅は唐救援に赴こうとしたが、大雪に阻まれた。新羅は情勢変動の中で半島の領有を唐に正式に認めさせ、独立国を目指す。そして、日本との対等の関係も模索し始めた。このように新羅と唐の接近、唐と対立し日本に接近を図る渤海、と三者三様の思惑の中に巻き込まれる日本なのだ。
732年、16年ぶりの遣唐使が、緊張の東アジヤ情勢に対応するために、派遣が決まった。翌733年4月大使・多治比大成が出発し、734年11月帰国。玄昉や吉備真備の多数の典籍や唐インド僧の来日、日本僧の入唐などその後の日本文化に大きく影響する重要な役割を果たした。
もう一つ、情勢認識を確かにしたのは節度使の設置である。節度使の任務は1.兵器や牛馬の移動禁止。 2.軍団の幕・釜の補充と籾・塩の調達、兵器の修理、軍船の築造。 3.兵士の令の規定通り徴発。 その1/4が常に動員可能体制とすること。である。節度使には参議藤原房前(東海・東山2道)、同多治比県守(山陰道)、同藤原宇合(西海道)を任じた。
これら防備体制は733年の「備辺式」に規定された初期目的を果たし、734年節度使の任は解かれた。内政・外交の両面政策が、遣唐使帰国をまたずその半面は完了したのである。734年、新羅使が国号を王城国と称し朝貢ではなく対等外交を要求したので、聖武天皇との謁見を停止し、一行を退去させた(引用)。
白村江の戦いの敗戦後に山陰道に朝鮮式山城を作らなかった疑問符