燕からの渡来系弥生人は呉からの直行組と北九州で同居した! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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春秋戦国時代、山東半島の斉と、北の燕は仲が良くなかった!実は燕は呉から流入した民(O2b、O3)がおり、斉の民(D2)と不仲であり、これが燕と斉の戦乱のもとになった!難民となった燕の民と斉の民の双方が日本列島に渡来したようである。

斉の民は直接に日本に向かい、一例として、斉の一族が紀元前300年ころ土井ヶ浜に渡来して、漢書には東鯷人と呼ばれた!それでは、燕の民は朝鮮半島経由で日本に渡来したようだが何処に渡来したのか!実は、北九州には既に紀元前400年ころ吉野ヶ里あたりに呉人が直接、渡来しており、このあたりを目指していたようである。彼らが、北九州の博多あたりから壱岐に居住したと想像され、漢書では倭人と呼ばれた!

北九州の吉野ヶ里あたりだった領域が福岡市あたりから、壱岐に進出したことをこれで説明できるかもしれない(参考)!邪馬臺国初期、製鉄技術の先進地は福岡市の博多遺跡であったが、中国東北部、すなわち燕からの渡来人が入植していた(参考)!

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青線は北九州への直行ルート、緑線は燕経由で北九州に合流するルート(サマリー)。


参考

① 漢(前漢)は紀元前1~2世紀における中国の王朝、漢書は漢の成立から滅亡までを記録した歴史書であり、後漢時代に入って紀元1世紀に成立した。

その漢書の中で、中国本土及び周辺地域の地理についてまとめた「地理志」に倭人について書かれた記事があり、「倭」と明示された中国史書の記載では最古のものとされている。

そして、倭人の記事が載っているのは地理志の中で「燕(えん)地条」と呼ばれる部分である。燕(えん)は春秋戦国時代に中国北東部にあった国であり、秦によって中国全土が統一されて後も、地方を示す名称として用いられた。この「燕地条」の中に、燕、楽浪郡、朝鮮の記事に続いて、倭人の記事が書かれている。ちなみに、以下が「楽浪海中有倭人」の記事である。

楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見云(楽浪海の中に倭人がいる。分かれて百余りの国があり、貢物を持ち定期的に来朝したという)

さて、この倭人の記事とよく似た文が別の地理志の別の場所に書かれている。「呉地条」という場所である。呉は燕と同様に春秋戦国時代の国の名前で、「呉越同舟」の語源となった呉王夫差が有名である。もっとも次の記事は、呉王とは直接の関係はない。

会稽海外有東鯷(テイ)人 分為二十余国 以歳時来献見云(会稽海の外に東テイ人がいる。分かれて二十余りの国があり、貢物を持って定期的に来朝したという)

注: 後漢と東鯷人は仲が悪かった(参考)。


②  春秋戦国時代の燕について

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③ 東鯷人は東のカタクチイワシの人、すなわち斉系弥生人であり、後の邪馬臺国を建国する(参考)。


④ 呉からの稲作弥生人は有明海から吉野ヶ里あたりに上陸した。後漢までは、彼らが倭人と見なされていたた(参考)。


⑤  紀元前に473長江河口域の呉が滅亡、紀元前後334に越が滅亡。長江文明人の南北への四散開始。南朝から北朝時代へ。長江人(Y染色体遺伝子O2)は四川雲南からベトナム北部(Y染色体遺伝子O2aへ、チベットへ(O2a)、中国河口部から北東部を経由して半島へ(O2b)、そして少数のあるものは早くも直接船で日本列島(O2b)へ、O2bは朝鮮民族の51%を締める(参考)。


⑥ 満州あたりまでO2b、O3(漢族)が分布している(参考)。


⑦ 「夷洲及び亶洲」(有明海沿岸から吉野ヶ里、玄界灘沿岸、壱岐、朝鮮半島南部、対馬は除く)あたりに居住した(参考)。


⑧ 大和あたりの銅鐸文化圏は越系弥生人の縄張り(参考)。


⑨ 福井から新潟あたりが越系弥生人の縄張り(参考)。