響灘文化圏の斉系弥生人より100年程早く渡来した玄界灘文化圏の呉系弥生人はどうも有明海から上陸して吉野ヶ里あたりに入植して、筑後平野を開発し有明海タイプの稲を栽培した。
これに対し、燕系弥生人(呉系弥生人と同族)は玄界灘の沿岸に上陸し、玄界灘タイプの稲を福岡平野(福岡市、春日市たあり)に栽培した。このタイプの稲は朝鮮半島にまで出土する。壱岐の島まで燕系弥生人が居住したと考える。そうすれば、対馬と壱岐の間、福岡県内の古賀市以西と福津市以東の間の文化的壁が自然に理解できる。
上図は呉系弥生人が吉野ヶ里あたりに住み、海人族安曇氏と斉系弥生人の勢力図、下図は呉系弥生人と燕系弥生人が壱岐あたりまで拡大した。
西北九州タイプとは在来系弥生人、すなわち縄文人である。彼らも西海タイプの稲を栽培していた。
参考
① 福岡県にも土井ヶ浜の弥生人と同じ特徴の弥生人が出土する様だが、渡来後の交流の結果(福岡県から土井ヶ浜弥生人が駆逐された!)とも考えられるが、北九州の福岡県から佐賀県は甕棺墓制の文化でまとまり、山口県は響灘文化(石棺墓制)、福岡県、佐賀県あたりの北九州は玄界灘文化(甕棺墓制)と大きく分類できる。
(参考)
② 米種類については玄界灘タイプ、有明海タイプ、西海タイプになると言う。しかし、本州最西端あたりの米については調べられてはいない。さらなる研究が待たれる。稲の種籾については、交換や強奪によって交流が早い。
参考①との関係で、土井ヶ浜・斉系弥生人と同じタイプの人骨が福岡市、春日市あたりに出土した結果と比較すると、元は響灘から玄界灘あたりが一つのグループ(斉系弥生人)が居たが、その後、この福岡平野あたりは有明海あたりの吉野ヶ里・呉系弥生人と朝鮮半島経由の燕系弥生人が居住した。
方言と言う民族に関わる特徴については、土井ヶ浜・斉系弥生人と吉野ヶ里・呉系弥生人の境界線は壱岐と対馬の間、福岡県古賀市と福津市の間になって以来、そんなに動いていない。