下関市と東彼杵郡の川棚、小串は親戚だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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下関市豊浦町川棚の弥生時代の条里制地割の水田

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長崎県東彼杵郡川棚町の条里制地割の町街と水田

また、地名が二ヶ所一致するだけでなく、西を北と言い張る北浦海岸に対し、東彼杵と西彼杵は南北方向に並ぶ。


海人族安曇氏の航海ネットワークなどを通じて、卑弥呼の時代から斉系弥生人(D2)の、例えば下関市から東彼杵郡への移入があった可能性も考えられる。ちなみに、熊本県宇土市馬門の阿蘇ピンク石の石工達は大和から移入した秦氏(D2)であった(参考)。


参考

長崎県の五島列島、山口県下関市、岡山県倉敷市、愛知県田原市に福江の地名が有った(参考)