応神天皇の産湯伝承の嘘(九州、大分八幡宮) | 日本の歴史と日本人のルーツ

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応神天皇は下関市吉母でご誕生し、長府の忌宮神社で産湯を使っているので、例の宇美八幡宮での応神天皇の誕生の嘘証明したところであるが、宇佐神宮の本宮で、かつ筥崎宮の元宮であるとされる大分八幡宮(ダイブハチマングウ)に応神天皇の産湯を使ったという伝承があることについて、どの様に否定するか悩んでいたら以下の九州筑紫王朝の研究ページが明快に否定してくれた。

正しくは、九州筑紫王朝は存在せず、海人族安曇氏の子孫の蘇我氏である(参考)。乙巳の変(645年)で安曇氏の土地が天智天皇のものになり、記紀や神社伝承で天皇に有利になるように利用された。

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さらに、神功皇后の軍隊をここで解散することについて、元熊襲の地の真っ只中で解散することは不自然で、後々の大和への東遷にも軍隊は必要であり、神功皇后の伝承は嘘であることがわかる。

大分八幡宮(八幡宮創建726年)、宇佐神宮(社殿造営725年)、筥崎宮(大分八幡宮から遷座923年)も本来は海人族安曇氏に関わる神社で、年代が日本書紀(720年)の後であり、記紀にあわせてストーリーを擦り合わせ、後から八幡大神を祀ったのであろう。宇美八幡宮も敏達天皇3年(575年)創建とあるが、石清水八幡宮の末社になって八幡大神を祀ったのは平安時代になってからとなる。


参考

 九州筑紫王朝に関する研究の中で、大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)を説明しているので、若干前後を入れ替えてコピペした。

大分八幡宮、福岡県飯塚市大分
祭神: 応神天皇・神功皇后・玉依姫命

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太宰府の北東約14kmに大分(だいぶ)の地名があって、ここに大分八幡宮がある。宇佐八幡宮の社伝「八幡宇佐宮御託宣集」によれば、「大分宮は我本宮なり」と記されている。また、宇佐八幡・岩清水八幡とともに日本三大八幡宮の一つである箱崎八幡宮は、923年(759年説あり)に、大分宮が箱崎の地に遷座したものである。すなわち大分八幡宮は、宇佐八幡宮の本宮であり、箱崎八幡宮の元宮でもある。


大分は「だいぶ」と読み、太傅(天子の師傅となる官)の事である。すなわちここは天子の養育に携わる太傅府が置かれた場所である。神殿裏山は皇室古墳埋蔵推定地になっていて、境内には応神天皇産湯の井戸がある。宇美八幡宮で生まれた応神天皇が、ここで産湯を使ったとする伝承の地である。宇美八幡宮から大分八幡宮に至る途中に「ショウケ越え」という奇妙な名前の峠があるが、「ショウケ」は、竹で編んだザルのことで、神功皇后が誕生間もない応神天皇をこの「ショウケ」にいれて、峠を越えたことから名づけられたという。竹で編んだザルのことを、この地方では「ショウケ」というが、関西地方では「ソウケ」という。すなわち「ショウケ」は宗家のことで、「筑紫王朝宗家が越えた峠」が本来の意味だと思う。神功皇后伝説は、このことを隠すための後の創作である。神功皇后伝説は大分(だいぶ)の地名についても抜かりなく説明している。それによると神功皇后は、新羅遠征の軍勢をここで解散し、それぞれの故郷に帰らせた。これが「大分(おおわ)かれ」で大分(だいぶ)の地名になったとするものである。なかなか苦心している。



② 応神天皇は下関で誕生



③ 神功皇后の三韓征伐からの帰路について



④ 下関のほとんどの八幡宮と石清水八幡宮、鶴岡八幡宮、京都の松尾神社は本殿が崖を背にして立っている。これに対し、宇美八幡宮、筥崎宮は平地、宇佐神宮、大分八幡宮旧境内は山頂に本殿があり形式が異なっていることを指摘したい。