太宰府の北東約14kmに大分(だいぶ)の地名があって、ここに大分八幡宮がある。宇佐八幡宮の社伝「八幡宇佐宮御託宣集」によれば、「大分宮は我本宮なり」と記されている。また、宇佐八幡・岩清水八幡とともに日本三大八幡宮の一つである箱崎八幡宮は、923年(759年説あり)に、大分宮が箱崎の地に遷座したものである。すなわち大分八幡宮は、宇佐八幡宮の本宮であり、箱崎八幡宮の元宮でもある。
大分は「だいぶ」と読み、太傅(天子の師傅となる官)の事である。すなわちここは天子の養育に携わる太傅府が置かれた場所である。神殿裏山は皇室古墳埋蔵推定地になっていて、境内には応神天皇産湯の井戸がある。宇美八幡宮で生まれた応神天皇が、ここで産湯を使ったとする伝承の地である。宇美八幡宮から大分八幡宮に至る途中に「ショウケ越え」という奇妙な名前の峠があるが、「ショウケ」は、竹で編んだザルのことで、神功皇后が誕生間もない応神天皇をこの「ショウケ」にいれて、峠を越えたことから名づけられたという。竹で編んだザルのことを、この地方では「ショウケ」というが、関西地方では「ソウケ」という。すなわち「ショウケ」は宗家のことで、「筑紫王朝宗家が越えた峠」が本来の意味だと思う。神功皇后伝説は、このことを隠すための後の創作である。神功皇后伝説は大分(だいぶ)の地名についても抜かりなく説明している。それによると神功皇后は、新羅遠征の軍勢をここで解散し、それぞれの故郷に帰らせた。これが「大分(おおわ)かれ」で大分(だいぶ)の地名になったとするものである。なかなか苦心している。
④ 下関のほとんどの八幡宮と石清水八幡宮、鶴岡八幡宮、京都の松尾神社は本殿が崖を背にして立っている。これに対し、宇美八幡宮、筥崎宮は平地、宇佐神宮、大分八幡宮旧境内は山頂に本殿があり形式が異なっていることを指摘したい。