安曇野市、長野県 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

海人族安曇氏が自ら陸上がりして農民になって定住した町、安曇野市を鳥瞰する。

{B626E7F9-E4F8-4356-B579-3DED8731E3A4:01}

{BDB45CFD-F192-4216-AA36-C7D778364E32:01}

{9F27E274-3642-4620-839E-15B547F6AF66:01}

{55856BFD-3275-4969-AD1C-E30FE8B43251:01}
安曇野の条里制地割、水田、街並み、林野まで美しい


参考

① 安曇野について

{7C0551A3-5174-4A94-9CF6-E0531BC424ED:01}

{47F557E7-E70F-4982-9D87-6257A4A744AD:01}


② 博多のオキュートと信州のエゴ(参考)

{F0FAA70E-579B-4D01-8652-B065D7ED8F0C:01}

安曇族が信州に持ち込んだ食文化の代表オキュート。信州では安曇野とその北部から新潟へかけて、現在でも食べられています。

信州では海産物が貴重品だったせいか、エゴを食べたのは主にハレの日。お祭りの時などで作ったといわれます。現在でも乾燥したエゴ草を水でとかし、各家で独自の作り方で作り、食しています。一方、博多では、昔はリヤカーに乗せて朝売りにきておりました。さすがに現在は、売りにはきませんが、でも日常的に食しております。

博多のオキュートの作り方を、大正5年頃からオキュート作りをなさっている井上オキュート店の井上弘子さん(72才)に伺いました。


{DF933A86-0BF0-4F7B-9A10-15F3E4031375:01}

安曇族が信州に持ち込んだとみられる九州の食文化の一つ、オキュートと信州のエゴをスタジオに持ち込み、ふるさと料理人として知られる藤清光さんに比較していただきました。

その結果分かったことは、信州のエゴは100%エゴ草でできており、九州のオキュートは、原料のエゴが現在では近辺の海でほとんど収穫できないので、エゴ草にいろんな海藻を混ぜている、という事が判明。

従って、信州のエゴはやわらかめにできており、切り方も厚く切って食する。オキュートは固めにできており、薄めに切って食べるという、食べ方の違いはあります。でも、ルーツは同じであるというのがわかりました。


③ 菩薩半跏思惟像(参考)

{C9C1D154-2A91-4A1E-9088-359E3D2F1348:01}

安曇族が持ち込んだとみられる安曇野の松川村観松院の菩薩半跏像、この像によく似た像が対馬にあります。

この像は対馬の島の中間程のところ、厳原から北へ車で30分程行ったところに万関橋という橋があります、この橋の近くに浄林寺というお寺があり、ここに安置してあります。像は上半身が火災で失われていますが、下半身の作りから、大きさは観松院の像よりひとまわり小さいものといわれます。そして、観松院の像と同じ頃作られたのではないかといわれます。

対馬は安曇族の拠点の一つともいわれます。2つの仏像にどう安曇族がかかわったのか興味あるところです。


④ 穂高神社(参考)

{CB5CF9A0-AAEE-460D-A9DB-A4B6DBF50A0C:01}

穂高見命は、大綿津見命(綿積、海神、わだつみ)である豊玉彦命の子。安曇連・凡海連・海犬養・安曇犬養らの祖。同じく綿津見神の御子である宇都志日金と同神とする説がある。

{0DDA580C-F643-4613-8C48-6DC51CD03560:01}


⑤-1 塩の道、千石街道(参考)

千国街道の名は、遠く中世以前にさかのぼるものである。北陸道からは、姫川沿いに遡上し、安曇野・松本平を縦貫して信州の東山道、木曽街道へ通ずる道であった。近世にあっては、松本城下から糸魚川までの百二十余キロの間を、越後では松本街道、信州では糸魚川街道と呼んだ。

信州と越後を結ぶ動脈として塩・麻など海陸の物資が運ばれ、新道の整備される明治二十年前後までは経済路線としての重要な役割を果たしていた。荷物の輸送は全て牛馬とボッカによるものであった。

千国街道は安曇野の豊かな田園地帯を貫き、仁科三湖を巡り、北アルプスを仰ぎ、渓谷に沿うなど、稀に見る美しい風光の地を辿っているが、この地域は豪雪地帯である上に険路が多く、物資の輸送は難渋を極めたのであった。街道時代には、大名行列の往還や参詣路としての華やかさはなく、わずかに旅芸人などの通うところであったが、すすきの穂波に見え隠れする庶民の汗の道として、また民俗・自然・石仏の宝庫として、歩く人々に深い郷愁を誘う道となっている。

戦国期、敵に塩をおくるという美談で知られる、越後の上杉謙信が甲斐の武田信玄に、牛馬の隊列を整えて塩をおくったというのもこの街道であった。




⑤-2 塩の道の分水嶺、塩尻

{05D0DC2F-8D96-4E4D-808E-47C1B61DEEB7:01}

{C1D22FB6-E60F-4AFF-80CD-597B84CE2277:01}
塩尻市街


⑥ 海人族安曇氏が塩を作った(参考)


⑦ 海人族安曇氏が日本列島に稲作水田をもたらした(参考)


⑧ 海人族安曇氏の入植先と云われている渥美半島の先端の伊良湖岬あたりの農地が矢張り美しい。

{22B18D23-DACC-43E9-88CC-CCB6CD1A41AF:01}
伊良湖岬あたり

{7E9E510E-D5C4-4890-9CCB-BA74DAD4D46A:01}
渥美半島


⑨ 安曇、志賀、鹿島など海人族安曇氏ゆかりの地(参考)