海人族安曇氏と山岳信仰 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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海人族安曇氏が何故、紀伊半島あたりにも定住し、熊野三山の神仏習合の山岳信仰が発生したのか?

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彼らの本業、漁業の為の船の防腐に水銀朱が必要で、鉱山開発など山師の仕事が発生した。実は紀伊半島は水銀鉱脈があり、修験道の場となった!水銀鉱脈は日本列島の九州、四国を貫く地質の不連続線である中央構造線に沿ってある。この線に沿って、役行者が創建したと云われる、西から国東半島、英彦山、石鎚山、金毘羅山、熊野三山があった。

山伏すなわち役行者(役小角)、そして行基、後々の弘法大師は本来は山師が本業か!


引用(コピー元)

神社や寺は宝の山を守っている?


春日大社は春日山 大神神社は三輪山を神域としているが、倒れて横たわる木であってもとることを許さない。これは神職・僧職が人々が神仏を恐れるのをいいことに「利をむさぼっている」からだとする。

山から「宝」が出てきたから、それを神として祭ったのだという。祠のある所が「鉱山」である。山中の社寺はこうして始まった。ところが長い年月は人々に様々なことを忘却させた。神職は鉱山であったことを忘れ、神域の保持に専念し、それがすべてになってしまった。


金峰山(きんぷせん)は金峯山とも表記し、「金の御岳(かねのみたけ)」とも呼ばれる。

吉野山の金峯山寺は修験道の中心地の一つであり、現在は金峯山修験本宗の総本山である。

「山の掟」霊山とは、「鉱山」か?


金峯山寺本堂の解体修理が、昭和61年(1986年)に終わった。工事に関係して行われた発掘調査で、平安時代の黄金仏が2体見つかって話題となった。現在採掘されてはいないが、金 銀 銅 亜鉛 マンガンなどの鉱物が埋まっていた鉱脈があることはよく知られていた。古代は、採金や治金がおこなわれていて、大峰山は「金の御嶽」と呼ばれるようになったのではないかと言われている。


神武天皇の伝説では、神武天皇が その土地の土着の先住民を従属していった歴史を述べている。八咫烏を先導にして、神武天皇は 熊野・吉野・宇陀の地を難無く簡単に征服できた。

「私は 贄持(にえもち)の子という名の 国つ神です」
「私の名は 井氷鹿(いひか)という国つ神です」
「私は 石押分(いわおしわく)の子という国つ神です。 」

その正体は?


大峰山護持院桜本坊に一巻の古い巻物『日雄寺継統記』が秘蔵されている。巻物は『桜本坊略伝』を書写抜粋したと記されてある。「日雄寺」は桜本坊の源流を形成する寺で、修験道創立に関する驚くべき事実が記されてある。

土着の先住民である井氷鹿(井光、いひか)は、吉野首(よしのおびと)の祖。井光の子孫は山伏になっていた。


吉野の蔵王堂には、巨大構造船を描いた巨大絵馬が掲げられている。渡来船大絵馬で1661年に奉納されている。船乗りたちは、海からみえる山を沿岸航行の目印とした。熊野灘の難所を航行する船は金峯山脈の南部、玉置山を航行の目印にしていた。熊野の海人たちは、海の安全を願い玉置山にのぼる。

吉野の古墳は、大陸と海洋の文化を持った人たちの足跡がみえてくる。


穂高神社の御船祭り
熊野神社の御船祭り
住吉神社のお船祭り
重柳八幡宮祭り舟 
潮神明宮の紫舟 

海に面していない事で有名な長野は「海なし県」とも呼ばれています。安曇野は、3000m級の山々が連なる北アルプスの裾野に広がる地。海とは縁遠い地
「御船祭り」


役小角の中国における仙人タンクは40人中三位だと語る。1812年に刊行された『日本名山図会』はトップに金峯山 2位に富士山で、金峯山も蔵王権現も中国にまで知れ渡り、日本で第一位の霊山だったという。

修験道の開祖「役小角」(賀茂氏)土蜘蛛の子孫。欽明天皇六年(634)葛城上郡茅原郷矢箱村で生まれた。役小角は「鬼神を役使した」道教 道教系の呪術を使う。呪術師だった。

金峯山寺は修験本宗(修験道)の本山である。開基(創立者)は役小角。


行基の開基また行基作の仏像を伝える寺院 は全国に777を数える。葛城山の西 和泉国大島郡蜂田郷うまれ(この時、役小角34歳)。行基23歳 具足受戒→受戒師は、「高宮寺」(葛城山中の高宮廃寺)の徳光禅師。「高宮寺」は、『日本書紀』葛城襲津彦が新羅から連れた捕虜が住み着いた→鍛冶の専門集落で大陸伝来の先進技術基地だった。


聖武天皇は「菩薩の大願を発(おこ)して盧舎那仏金銅像一躯を造り奉る」ことを発願した。そのためには「国銅を尽して象を鎔(とか)し、大山を削りて以て堂を構へ」、つまり、国じゅうの銅を溶かして大仏を造り、山を削って大仏殿を造ると言っている。銅のみならず、大仏の金メッキするには水銀がなくてはならない。三重県多気郡勢和村丹生付近は辰砂の採掘の中心地で、主にこの地の辰砂から精製された水銀が用いられた。

二月堂「お水取り」は、金峯山寺本堂と同じで禁断の地「井戸」である。

巨大な盧舎那仏像の建造は、奈良ではなく甲賀であった。二月堂の守り神は甲賀の「飯道神」。



甲賀と伊賀は長らく中央権力の及ばぬ忍者発祥の地だった。

伊賀・甲賀・雑賀、さらには柳生等の紀伊半島は、天武天皇が「壬申の乱」の直前に住んでいた場所であり、忍者は「壬申の乱」でも活躍したという伝承がある。また、後醍醐天皇の南朝がおかれるなど、特殊な霊地が多い。

東大寺二月堂の守り神である甲賀「飯道神」は、金属工芸を司る神でもあった。

三重県伊賀市四十九町は、古代から続く金属工芸の中心地として栄えていたという。

甲賀流忍者→吉野の修験道
伊賀流忍者→行基
山伏も忍者も鉱物資源に密接な関係をもてえいたことが伺える


修験道・山伏・忍者のルーツは中国の道教 錬金術との関係が強い。

金属器の生産と在来の宗教哲学、神仙思想は不可分な関係にある。金属の変化する過程においてその思想は西洋でもそうですが、東洋では、中国道教の錬金術となる。道士は鍛冶師であり、自ら製品をつくる事も要求されていた。「火を使い操り、金属を変化させる」その神秘性が後の時代に、精神の変性を重んじるようになっていく。


天武天皇は吉野で挙兵し壬申の乱を勃発した。
神武天皇は吉野の豪族と会談した後、大和朝廷を開いている。
後醍醐天皇は山伏軍団を擁 して吉野山の南朝をひらいた。南朝はここを戦闘基地にして60年も戦う。
持統天皇は生涯に34回も吉野を訪れている。
(空海は吉野で修行したあと真言宗を開いた。)
古代天皇にとって吉野の山は、どんな意味があったのか?
奈良県明日香村岡にある「酒船石」は、実は『朱造石』と称すべき石造物であり、辰砂粉末をながしたものである?


弘法大師・空海が高野山金剛峯寺を開いたのは、地主神たる「丹生都比売神社」がその神領を譲ったことによると伝えられている。「丹生都比売神社」名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味している。「丹生都比売神社」は、古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。紀伊半島には,現在でも50以上もの丹生神社が残っています。その丹生の中心に建っているのが、弘法大師ゆかりの寺院(丹生山神宮寺)で「丹生大師」と呼ばれている。


丹生都比売大神の性格については大きく分けて2説がある。一つは水神とみるものである。もう一つは、「丹」すなわち朱砂(辰砂:朱色の硫化水銀)の採掘に携わる人々によって祀られたという説。全国にある「丹生」と名のつく土地・神社は、水銀の採掘に携わった氏族(丹生氏)と深い関係にあることが明らかとなっている。同地は丹生氏の本拠地だったともいわれ、水銀にまつわる神と考えられる。朱砂の神から水の神、そして修験道の神、高野山の守護神として、ひっそりとそこに鎮座されている。水銀の女祖「丹生都比売」の誕生から、日本に渡来してきた古代の海族が見えてくる。


丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開いたと言われている。

全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である「丹生都比売神社」に参拝した。


丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。

「犬」とは、製鉄の民の間では砂鉄を求めて山野を跋渉する一群の人々の呼称であった。つまり、製鉄の部民にほかならない。

「犬」をつれて「狩」にでたというのは、狩猟という行為ではなく、鉄の在処を求めて山野を跋渉する行為を言うものであるという。


丹生という地名や丹生神を祀る神社は、中央構造線と糸魚川・静岡構造線上に、ほぼ乗っていると言われる。構造線上にない若狭湾周辺には、水銀鉱床がある。紀伊半島は最大の辰砂の産地。水銀の生産は圧倒的に伊勢国であった。奈良東大寺の虞舎那仏像(大仏)の建造の際に使用された水銀は伊勢産。戦乱によって損壊した大仏を再建するために用いられた水銀は、全て伊勢産であったと考えられている。伊勢産を含めた水銀や朱砂が交易品として中国にも輸出されていた。

弘法大師は、「伊勢神宮の鬼門を守る寺」金剛證寺を中興したと伝えられている。

伊勢神宮の鬼門を守る寺 金剛證寺(こんごうしょうじ) 

「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」この地方の最高峰の朝熊山は古くから山岳信仰の対象となり、825年(天長2年)に空海が真言密教道場として南峯東腹に金剛證寺を建立した。

金剛証寺本堂の西南に、明治27年(1894)ここから陶製経筒が発見された。これにより神官僧侶などによる朝熊山を中心とする埋経信仰が明らかになった。平安末期のころ、朝熊山に経を埋めて、現世や後世の安穏を祈ったということである。桜井徳太郎は「伊勢神宮そのものが、朝熊山の里宮として成立した」という。


四国で泊まった鈍川温泉で、「鈍川の名のおこり」といった内容が書かれてありました。

鈍川は昔、丹生川と書いていました。丹生という地名や丹生神を祀る神社は、中央構造線に位置し、吉野の仙境も伊予の仙境と呼ばれる鈍川も辰砂の産地だ。吉野も石鎚山も修験道の霊山である。


弘法大師にまつわる伝説は全国に5000以上,水関係だけで1600以上あるという。

伝説の井戸も温泉も鉱石を採掘する露天掘りの跡?


欽明天皇を父とし、皇極天皇(斉明天皇)を母として生まれた。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。兄である中大兄皇子(天智天皇)。

日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代。道教に関心を寄せ、神道を整備して国家神道を確立し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇とも言われる。

名の大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむ。大海人皇子を養育したのは、大海宿禰蒭蒲。葛城山を拠点とする海人系の金属精錬技術者であった。

また、崩御された天武天皇の諡「瀛真人」は、道教の神学で「瀛(えい)州」と呼ばれる海中の神山に住む神仙世界の高級者という意味であるという


藤原宮の大極殿跡から中軸線は南で高松塚古墳を結び、「聖なるライン」と呼ばれてきた。天武・持統合葬陵(大内陵)をはじめ、多くの終末期古墳がその線上にひしめくという。

藤原京の蘇りの宮☞藤原京の造営は、天武天皇によって計画された。

道教思想によると、天上の神々の世界と、死後の世界は常に相似形で考えられている。その天上世界の正殿である「紫宮」の南には、蘇りの為の宮殿「朱宮(しゅきゆう)」があるとされる。

6世紀の道教教典には、生前、善徳を積んだ者は、死後に「紫宮」南方の「朱宮(朱火宮)」で特訓を受け、神仙となって、東方の東海青童君の収める「東華宮」に遊ぶという⇒藤原京 明日香村の真東は「伊勢神宮」である。

古墳時代の人にとって、朱の呪術・朱への畏怖の念はすこしずつ消え始め、やがて錬金術(煉丹術 )であるアマルガム鍍金の全国展開が辰砂受容を増大させる。

注:

金・水銀は仏像鍍金には不可欠な金属で、水銀鉱である辰砂の発見は古代山師にとっても重要な任務であった。特に国家事業としての盧舎那大仏造立には、辰砂探索の必要性は貴族の中でも万葉集として記録されている。

古代中国では皇帝が身につけるものあるいは皇帝に関わるものには最高位の純朱が用いられ、それは辰・綿の二州から産出する上質朱砂を磨った天然水銀朱であった。古代中国の赤色位階は日本へも伝わった。伊勢産を含めた水銀や朱砂が交易品として中国にも輸出されていた。