卑弥呼の鏡、三角縁神獣鏡の絵柄などから分かるが、邪馬台国時代の3世紀中頃には道教が日本列島に渡来しており、卑弥呼の鬼道は道教だった(参考)。また、蘇我氏が推進した仏教の公伝(参考)は538年ころ(参考)、蘇我氏の私伝は522年ころと云われているが、中国の仏教は中国古来の道教とインド仏教が習合したものであった。
そして、紀伊半島の熊野などで行われた修験道の行者すなわち山伏は、海人族安曇氏の水銀朱鉱脈を探す山師の山岳信仰として、道教の道士がルーツであろう(参考)。これが海人族安曇氏の一族、蘇我氏が主導して仏教を受け入れたのに続き、修験道に仏教的な側面が伺える素地となった。
ところで、儒教は6世紀初めころ伝来したが、現天皇家の多神教としての神道と相性がよく、乙巳の変(645年)の政変(参考)を経て8世紀から本格化する現天皇家の神道(参考)は儒教が習合したものに、蘇我氏が受容した仏教に習合して、江戸時代まで続く日本独自の神仏習合の宗教となった。
したがって、修験道は仏教の修行としての道教的山岳信仰に、儒教的な神道が習合したのであろう。
参考
① 修験道(コトバンク)
④ 中国仏教(引用)
インドの成立した仏教が、中国に伝来した時期については、文献上では前漢の哀帝の紀元前2年に大月氏国の使者が伝えたのが最初とされる。そして最初の信者となったのが後漢の明帝(在位57年~75年)の異母弟楚王英であり、皇帝としての最初の信者は後漢の桓帝(在位147~167年)であった。
後漢での仏教は道教の仙人である黄帝と一緒に仏陀が祀られており、不老長寿の霊力のあるものとして信じられた。仏教は現世的な功利を目的とする信仰の形で後漢の社会に受け入れられたのであった。
仏教経典が伝えられられたのは3世紀の西晋時代で、敦煌に住む月氏の人、竺法護(233年~310年)が初めて多くの大乗仏教の経典を漢訳した。彼の翻訳した『正法華経』は観音信仰の広まる基礎となり、また『維摩経』は竹林の七賢などの清談にも影響を与えた。
次いで西域から仏図澄・鳩摩羅什らが渡来することによって、大乗仏教の本格的な受容が始まる。
<鎌田茂雄『仏教の来た道』1995 講談社学術文庫>
・インド仏教とは大きく性格の違う中国仏教
中国にあっては、仏教が中国に伝来する以前に、道教が広がっており、仏典漢訳のさい、道教に由来する語彙で表記した例もかなりある。釈迦誕生説話にちなんで仙人であった。道教の仙人が仏教と習合している。高句麗の古墳には飛天と仙女とが同じ古墳の壁画に描かれているものもある。
インドから仏教が入って、仏典はすべて漢訳されます。それは単に中国語に言葉が変えられたというだけでなく、思想や考え方、哲学なども入り、インド仏教は中国伝統的な土着の民族宗教の「道教」や「儒教」などが入り交じって新たな中国仏教となるのです。
また、インド仏教の小乗と大乗は仏教思想に歴史的な展開と変化が見られますが、そのインド仏教の歴史的な展開と変化は「一挙に中国に伝来した事により経典の中に矛盾した事が書いてある」ということになり、その矛盾がないように中国で処理されます。
日本は(朝鮮も)、この中国仏教を「仏教」として丸ごと受け入れています。
⑤ 福岡県の英彦山あたりが修験道の霊山(参考)