これに対し、兵庫県揖保郡太子町鵤の地は美しい条里制地割の水田と街並みがあった。この地は推古天皇から賜ったとの伝承がある。推古天皇、聖徳太子(厩戸皇子)は蘇我馬子と協調して仏教を篤く興隆したと云われている。
美しい条里制地割の水田と街並みは海人族安曇氏、すなわち蘇我氏自ら開発した所領であることが確信される(参考)。すなわち、海人族安曇氏の長として蘇我氏と蘇我馬子がおり(参考)、蘇我馬子と血縁の推古天皇や聖徳太子の史実としての関係性を当地、すなわち兵庫県揖保郡太子町鵤と斑鳩寺が証明している。
参考
① 聖徳太子の別荘、兵庫県揖保郡太子町鵤(斑鳩)
斑鳩寺、三重塔
(参考)
明日香村
④ 聖徳太子
⑤ 法隆寺、奈良県斑鳩町
初期ヤマト政権は大和盆地(中央は湖だった)の東側、天理市から桜井市辺りを根拠地としていた。それに対し、瀬戸内海への出入り口あたりを蘇我氏系の氏族すなわち、海人族安曇氏の末裔達が居住したことになる。蘇我稲目の都塚古墳や蘇我馬子の石舞台古墳などは奈良県明日香村に所在する。
しかし、これに対し、応神天皇以降、天皇達の陵墓は奈良盆地を出て河内平野に進出し、さらに聖徳太子が居られた当時の天皇達、すなわち敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇の陵墓は大和盆地の外側である大阪府南河内郡太子町にある。
蘇我氏と天皇家の力関係を象徴している。ちなみに、蘇我氏が滅んだ後の斉明天皇の陵墓から大和盆地に戻り、天智天皇と弘文天皇を飛ばして、天武天皇や持統天皇達の陵墓は明日香村にある。
§1 兵庫県揖保郡にある太子町は、いうまでもなく聖徳太子からつけられた町の名です。そのほぼ中央部にあった鵤荘(いかるがのしょう)は、聖徳太子が推古天皇から与えられた水田100町をもって荘園の起源とされます。
『日本書紀』606(推古天皇14)年、皇太子は法華経を岡本宮(飛鳥の地)で講じられた。天皇は喜び播磨国の水田百町を皇太子におくられた。太子はこれを斑鳩寺(法隆寺のこと)に納めた。(宇治谷孟『日本書紀』現代語訳)
鵤荘の地は『播磨国風土記』(713年詔)に天皇や皇室の人名が登場することから古くから大和朝廷の支配下にあったことがうかがえ、法隆寺へ施入されてからも開発され、一連の古資料からも、法隆寺が鵤荘を維持するために労力を費やし様々な施策をとってきたことがよみとれます。
§2 『法隆寺伽藍縁起?流記資財帳』(奈良期747年)には、水田の記述の中に近江国・大倭国・河内国・摂津国と並んで、「播磨国揖保郡 貳百壱拾玖町壱段捌拾貳歩(219町1段82歩)」とあります。この面積は約220万㎡≒65万坪になり、広大な荘園だったとみられます。
水田だけでなく「畑地壱拾貳町貳段、山林五地、池一塘」とも記され、畑・山林・池を所有していました。これらをすべて合わせてのことと思われますが、布施された土地は50万代(1000町)と記されています。
§3 これらの土地が、法隆寺の荘園=鵤荘として史料に登場するのは、『法隆寺別当次第』親誉大徳の項、1040(長暦4)年「寺家慶好を実検使として播磨鵤御荘へ遣わす」とあることから、『太子町史』はこの平安中期を鵤荘の成立としています。
法隆寺の荘園は、法隆寺資財帳によると広範囲に40ヵ所ほどあり、遠方では上野国(群馬)・相模国(神奈川)・備後国(広島) ・讃岐国(香川)・伊予国(愛媛)などにもみえます。その中で鵤荘は、面積・石高において群を抜いており、法隆寺の生命線でした。
⑧ 播磨国風土記(713年)
奈良時代の播磨の国、現在の姫路市を中心とした地域の気候、風土、歴史が書かれている書物に『播磨国風土記』がある。風土記とは、奈良時代に地方の文化風土や地勢などが国ごとに記録編纂されたもので、その編纂は、元明天皇の和銅6年(713年)5月2日の官命によるものだった。土地の有様や産物も詳しく記されており、天皇がそれらの記述を命じたのも、地方の実態を把握したかったからであろう。
『播磨国風土記』の揖保郡条に、出雲の関係する伝承が多い。このことから、この地に出雲の人々が出入りしたことが想定できる。出雲臣一族や出雲の人々は畿内やその周辺に移り住んでいたのであろう(参考)。
『播磨国風土記』の揖保郡条に、出雲の関係する伝承が多い。このことから、この地に出雲の人々が出入りしたことが想定できる。出雲臣一族や出雲の人々は畿内やその周辺に移り住んでいたのであろう(参考)。
注: 元々は海人族安曇氏の末裔、蘇我氏の所領だったが、ヤマト政権に接収された。これを隠す為、古事記と日本書紀の間に刊行した播磨国風土記では出雲臣一族(ヤマト政権側)が初めから入植していたと記した。