豊国は蘇我王国であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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豊国あたりは元々、海人族安曇氏が集住し、比売大神(卑弥呼)を祀っていた(参考)。そして、一族の長、蘇我馬子が仏教を信仰し(参考)、豊国に石仏、寺院を創建し、さらに修験道を普及させた。

日本列島の支配権が蘇我氏からヤマト政権に集中する8世紀初頭あたりから寺院の神社化(神仏習合)、神社(神宮寺)の創建が始まった。すなわち、乙巳の変(645年)の政変(参考)を経て、8世紀から現天皇家のヤマト政権が神道(参考)を普及させた。

この頃からヤマト政権の中核である秦氏が入植し始め、宇佐神宮に八幡大神(八幡大菩薩)を祀った。そして記紀や風土記を編纂して、昔から八幡神が存在したかのような神話を創作した。

隋書に、608年、隋使、文林郎裴世清に秦王国を紹介したとある。当時の豊国は海人族安曇氏(蘇我氏)の国で仏教が開花する時代であり、まだ八幡神の時代では無かった。約百年後あたりから宇佐神宮が歴史に現れることになる。701年の戸籍でも豊国における秦氏の人数は王国と言える程のことは無かった。すなわち豊国あたりは、まだ蘇我氏の仏教王国であり、渡来人秦氏が占拠する秦王国では無かった。


注意

現在の神社及び社伝は明治になってから神仏分離令後に作られたと言っても過言では無く、神話の時代から連綿と続いていると主張する由緒を鵜呑みにしてはならない。すなわち廃仏毀釈され廃棄された寺院や仏像の方が古くからの由緒を持っている場合がある。また、神社合祀令が古代の歴史を消している場合もある。


参考

① 宇佐神宮の辛島氏の比売大神信仰(wikiより)

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② 辛島氏の出自、福津市津屋崎の勝浦あたりの出身、阿部氏(海人族安曇氏)との拘わりがある。

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(参考)


③ 辛島郷

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④ 法鏡寺廃寺跡

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⑤ 虚空蔵寺

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⑥ 九州の寺院、神社(参考)

8世紀末までに建立された九州の寺院跡

  ⑴ 豊前10、筑前14、肥後8、肥前6
  ⑵ もっとも古いのは豊前
  ⑶ 豊前の寺院跡
    ⒈ 旧宇佐郡
         a. 虚空蔵寺 宇佐市大字山本 新羅系古瓦を出土。
     b. 法鏡寺 宇佐市大字法鏡寺
     c. 小倉池廃寺 宇佐市大字上元重
     d. 弥勒寺 宇佐市大字南宇佐
  2. 旧下毛郡 相原廃寺 中津市大字相原
  3. 旧上毛郡 垂水廃寺
           福岡県築上郡新吉富村垂水 新羅系古瓦を出土。
  4.旧仲津郡
    a. 上坂廃寺 福岡県京都郡豊津町上坂
    b. 豊後国分寺 福岡県京都郡豊津町国分
  5. 旧京都郡
    a. 椿市廃寺 行橋市椿市・福丸願光寺境内
             新羅系古瓦を出土
    b. 木山廃寺 京都郡犀川町木山
  6.旧田川郡 
天台寺 田川市鎮西町伊田
             新羅系古瓦を出土。

九州における白鳳期の寺院

 ⑴ 豊前国8、筑前国5、筑後国2、肥前国3、肥後国2
 ⑵ 豊後国、日向国、大隈国、薩摩国には存在しない
 ⑶ 北部九州に初期寺院が多く、とくに豊前国に集中
 ⑷ 新羅系瓦としては虚空蔵寺の瓦がもっとも古い
 ⑸ 豊前国では仏教が古く

ニ豊(豊前、豊後)の神社

 ⑴ 平安以降、社殿を持つ神社数が、豊前国と薩摩国が九州で最低
 ⑵ 豊前国は、田川郡と宇佐郡の2箇所で、北と南に離れている
 ⑶ 平安時代後、豊前国では八幡社が圧倒的に多くなる。
 ⑷ 豊後国は、速見2社、大分1社、海部1社、直入1社の5社



⑦ 豊国あたりを中心とした古代の歴史(参考)

0522 継体16年 ■大唐漢人・案部村主司馬達等が大和国高市郡坂田原に草堂を建てて仏像を置いた。
0531 継体25年 ■豊前国彦山が北魏の善正によって開かれた。
0552 欽明13年 ■百済の聖明王が仏像・仏具・経論を献じた。「法師」という言葉が使われた。
0570 欽明31年 ■豊後国神角山が新羅僧によって開かれた。
0584 敏達13年 ■弥勒信仰が伝わる。
0609 推古17年 ■筑紫大宰、初登場
0639 舒明11年 ■百済大寺建立。
0649 孝徳05年 ■蘇我日向、筑紫大宰に就任。
0654 白雉05年 ■大宰府町大字南字般若寺に般若寺建立。
0663                ■大津皇子誕生。大宰府が整備される。
0664                ■対馬・壱岐・筑紫に防人と烽を置く。水城設置。
0665                ■長門城・大野城・掾城を築く。
0673 天武02年 ■大官大寺建立。
0673 天武03年 ■諸国の家毎に仏像・経典が置かれた。
0675 天武04年 ■諸国に遣わして「金光明経」と「仁王経」と説かしめた。
0684 天武13年 ■諸国毎に仏舎をつくり仏像経典を安置させた。
0689 持統03年 ■浄御原令
0694 持統08年 ■金光明経100部を諸国に置き、毎年正月の上玄の日に読ませた。
0698 文武02年 ■伊勢国大神宮の神宮寺建立
0699 文武03年 ■役小角が伊豆へ流される。
0712 和銅05年 ■鷹居瀬社建立。
0713 和銅06年 ■風土記の編纂を指示。
0713 和銅06年 ■諸寺が多くの田野を占有するため、占有面積を制限する処置がとられた。
0715 霊亀01年 ■越前国気比神宮寺建立。
0716 霊亀02年 託宣により、小倉山の丑寅の小山田の林に宮柱を立て神殿を造り祭祀した。
0717 養老01年 ■行基一派が弾圧される。
0718 養老02年 ■僧が山や市里に入るのを禁ず。
0722 養老06年 ■良田百万町歩開墾の計画。
0724 神亀01年 ■勅使を立てていかなる神社を造ったらよいかを問うた。
0733 天平05年 ■宇佐神宮、第二殿として比売神が奉祀され、翌年に遷宮した。
0737 天平09年 ■『豊後国正税帳』
0737 天平09年 ■金光明経100部を諸国に置き、毎年正月の上玄の日に読ませた。
0737 天平09年 ■伊勢神宮などと共に宇佐八幡社が『続日本紀』に記載される。
0741 天平13年 ■国分寺建立の詔
0741 天平13年 ■朝廷は宇佐宮に封戸20戸、神宝・造寺・度僧・最勝王経などを納めた。
0749 天平01年 ■寺院に対する占有面積が寺院ごとに決定される。
0750 天平02年 ■八幡大神に封800戸、位田80町が寄進された
0755    天平07年 ■八幡宮・八幡宮比売神(ひめがみ)に対し封戸600戸が突然与えられる。宇佐に八幡比売神宮寺が造られる。


⑧ 豊国の秦氏(参考)

秦氏について、年代に幅があるが『日本古代人名事典』(吉川弘文館)から現在に遺された一族の氏名を調べてみた。摂津の国では八名が確認できたが、特筆すべきは御野国加毛郡半布里(美濃国加茂郡羽生村)の三七八名と、豊国(豊前・豊後)の二八一名が検索できたことである。これは、この両国の大宝律令(七○一)の戸籍が正倉院に保存されているためである

秦氏は、この701年に豊国に僅か281名とあり、この後に増加して行ったと考えるのが妥当である。


⑨ 山岳信仰と海人族安曇氏(参考)


10 廃仏毀釈(日経ビジネス)

廃仏毀釈とは、幕末から明治9年頃にかけて全国的に実施された仏教弾圧のこと。多くの寺院が廃寺になり、仏像などが破壊された。僧侶は還俗(げんぞく)させられた。

特に鹿児島県は、廃仏毀釈が最も激しかった地域として知られている。

鹿児島県史によると、県内には江戸末期まで寺院が1066カ寺あり、僧侶が2964人いた。ところが1874年(明治7年)には双方ともにゼロになった。にわかには信じ難いことだ。廃仏毀釈が終わり、1876年(明治9年)に鹿児島県に「信教の自由令」が出されるまで、廃仏毀釈は続いた。

廃仏毀釈が収まり、一部の寺院が復興し、また浄土真宗が鹿児島県における布教活動に力を入れたことから、現在では数の上では廃仏毀釈以前の半分の水準まで寺院数は回復してきている。

そうした歴史的経緯があり、鹿児島県内には古い寺は存在しない。真新しい鉄筋コンクリート造りの伽藍ばかりが目立つ。

鹿児島の街を歩くと、「○○寺跡」という看板が目につく。廃仏毀釈で廃寺になったことの証しだ。その寺院跡を訪ねてみても、そこには寺の跡形もない。共同墓地になっていることが多い。


11 神社合祀令(参考)

明治39年(1906)12月に1町村1社を原則として統廃合を行う「神社合祀令」が発布されました。最も顕著なのは三重県で6500社が1/7に、和歌山県では3700社が1/6に減少し、1913年には19万社が12万社迄大幅に減少しました。

その結果古来の神々の由緒が大きく損なわれ、特に出雲系の信仰が大きく後退し、記紀神話の皇統譜に統一されていくという、偏狭な思想統制に近いことが行われました。

この施策により物理的には広大な面積の鎮守の森が失われる結果にもなり、入会地として農村の大きな財源が国家に摂取されることにもなりました。


12 秦王国(wikiより)

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13 秦王国は関門海峡に入る直前に見えた(参考)


14 京都郡苅田町あたりも海人族安曇氏の領域(参考)