筑紫君磐井と葛城氏 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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筑紫君磐井は継体天皇に反逆して殺されたが、彼の妻は海人族安曇氏の女子で、子の葛子の妻も安曇氏の女子であった(参考)。

また、継体天皇以前の武烈天皇までの天皇に関わる葛城氏はもちろん武内宿禰の子孫である海人族安曇氏の出であり、すなわち筑紫君磐井と葛子は葛城氏と同族で、葛城氏と運命を共にしたのか?!

継体天皇になって男系での葛城氏は滅びたが、継体天皇以降の天皇と関わる蘇我氏とは女系では葛城氏から連続している(参考)。


参考

① 継体天皇の在位中の出来事と蘇我氏の台頭(参考)

・この時代の石棺には、阿蘇(有明海沿岸勢力の中心)のピンク石を使ったものがある。これらはいずれも「葛城氏とは対立的で継体天皇の支持勢力が多かった大和盆地東麓エリア」の古墳に集中している。葛城氏の勢力にはない。

・よって、当時の大和王権は、「継体天皇支持勢力+有明海沿岸勢力 VS 葛城系勢力」という構図だったと考えられる。

・そんな中、磐井の乱が勃発。これは、継体天皇が大和に入った1年後、大和王権と九州の筑紫君磐井との間に起こった軍事対決。先に官軍(継体天皇)が攻撃を起こした。中央より独立しようとしていた磐井を鎮圧した戦いと考えられている。

・このころ(6世紀初頭)、突然ピンク石の畿内持ち込み中止・・・磐井の乱の影響だろう。

・また同時期に、葛城氏の古墳が小形化・・・継体天皇の大和入りにより継体反対勢力の葛城氏の政治連合は解体されたのであろう。

・その後、葛城氏に変わって蘇我氏が台頭。継体支持の功績がきっかけだったと考えられる。

・第26代継体天皇陵と推定される今城塚古墳の全長は190メートル。雄略天皇の後、古墳は小形化しましたが、それが雄略陵と同程度の大きさに戻っています。


② 応神天皇以降の天皇達と葛城氏

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③ 継体天皇以降の天皇達と蘇我氏

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④ 蘇我稲目が葛城氏を継いだ。すなわち、稲目の妻は葛城氏の出で、娘達は葛城氏の女系の遺伝子を継いでいる。

wikiによると、
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⑤ 葛城氏と蘇我氏が主人公(参考)


⑥ 筑紫君磐井の乱

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