河内国に定住した秦氏は下関市あたりを経由した | 日本の歴史と日本人のルーツ

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仁徳天皇の治世について日本書紀を読むと、河内国(大阪府内)に横野豊浦(トユラ)の名前が出てくるが下関市(穴門の豊浦宮、アナトのトユラのミヤ)に同じ地名があった。特に、豊浦の読みがトヨウラでは無くトユラであり、偶然とは考えられない。

秦の始皇帝の末裔の功満王が穴門の豊浦宮に居られる仲哀天皇に蚕種を献上したと日本書紀にあり、また応神天皇の時代に功満王の子の融通王と秦氏一族が渡来して来た(参考)。応神天皇の子の仁徳天皇と秦氏が開拓した河内国の地名と関わりがあってもおかしくない。

すなわち、秦氏の一族は下関市(穴門の豊浦宮)あたりを経由して河内国に到着したと考える。


参考

① 日本書紀、仁徳天皇(参考)

仁徳天皇即位13年秋9月。
初めて茨田屯倉(マムタノミヤケ=河内国交野郡三宅郷=現在の大阪府北河内郡交野町)を立てました。それで春米部(ツキシネベ=米をつく部民のこと)を定めました。
 
冬10月。
和珥池(ワニノイケ)を作りました。この月、横野堤(ヨコノノツツミ=現在の大阪市生野区巽大地町付近)を築きました。 

仁徳天皇即位14年冬11月。
猪甘津(イカヒノツ=大阪市生野区猪飼野町)に橋を渡しました。その場所を名付けて「小橋(=大阪市生野区鶴橋町に小橋という地名がある)」と言います。 この年、大道を京(ミサト)の中に作りました。南の門からまっすぐに丹比邑(タジヒノムラ=大阪府羽曳野市丹比)へと向かっています。また、大溝(オオウナデ)を感玖(コムク=河内国石川郡紺口=現在大阪府南河内郡河南町から千早赤阪村のあたり?)に掘りました。石河の水を引いて、上鈴鹿(カミツスズカ)、下鈴鹿(シモツスズカ)、上豊浦(カミツトユラ)、下豊浦(シモツトヨラ)、四箇所の郊原(ハラ)を潤し、水を張って四万余りの頃(シロ=広さの単位)の田を得ました。その土地の百姓は豊かになって賑わって、凶作の年の憂いも無くなりました。

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古代の河内国の横野堤あたり

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古代の河内国の豊浦あたり


② 下関市の横野と豊浦

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③ 下関市に穴門の豊浦宮があったのは定説の通りだが、横野の地名は遅くとも天智天皇の時代(668年)は存在した(参考)


④ 下関市の穴門の豊浦宮が秦王国だった(参考)


⑤ 生野地名が下関市と大阪市にある(参考)


⑥ 中国地方の瀬戸内海沿岸を移動した(参考)