下関と万葉歌人、額田王 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみ、生没年不詳)は飛鳥時代の皇族・歌人。天武天皇の妃(一説に采女)で、彼女の万葉集にある歌「茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)」、意味「茜色を帯びる、あの紫草の野を行き、標野を散策している私に、あなたは袖をお振りになられていますが、野守に見つかってしまいますよ。」は、額田王の歌の中で、最も広く知られている歌です。

白村江の戦いの敗戦後、668年近江大津宮での歌で、蒲生野(かまふの)に天智天皇、大海人皇子、そしてその他多くの廷臣や女官達が薬猟をした時(天智天皇7年5月5日、ユリウス暦668年6月19日)の歌とされ、既に、天智天皇の妻となってしまった額田王と、大海人皇子が偶然出会い、額田王が詠んだ歌と云われています(参考)。

そして、返歌紫の匂へる妹を憎あらば 人妻ゆへに われ恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)」、意味「紫草のように匂うがごとく美しいあなたを、憎く思えるのであれば、もう既に人妻であるあなたを、こんなに恋しくは思わないだろうに」も、実は額田王の故郷、下関市大字蒲生野(かもうの)での歌であった(参考原版参考コピー版)

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紫野は村崎の鼻、標野は横野


時代は下った平安時代、菅原道真公も村崎鼻(観音崎、十一面観音菩薩があった)を訪れ、横野の浜から九州の小倉に渡っている。菅原道真公撰と伝える『新撰万葉集』(しんせんまんようしゅう、2巻1冊または2冊)があるように、道真公自ら額田王の歌を現地で偲んだのであろう!さらに菅原道真公自身が歌を作られていた。


住吉大神が希望した穴門国の山田邑は蒲生野にあった。


瀬戸内海と北九州沿岸の交通に関門海峡を通過しない陸路がある。特に、長府と安岡、横野を結ぶ長安線は古代から重要な道であった。高句麗国が滅びた668年ころ前後までは、百済や高句麗の遺民の収容などで、多くの人々が行き交っていたと思われる。


巻10・1825・作者未詳の歌: 「紫之 根延横野之 春野庭 君乎懸管 鴬名雲、訳: 紫の根延ふ横野の春野には君を懸けつつ鴬鳴くも」も額田王自身が蒲生野で歌ったものである。


蒲生野(かもうの)の北側に、深坂(みさか) と呼ばれる峡谷があり長谷(はせ)と呼ばれていた。蒲生野の妙蓮寺(みょうれんじ)の山号の「長谷山」 (ちょうこくさん)はこれにちなんでいる。長府の近くに逢坂もあり、万葉集に出て来そうな名前である。現実には万葉集からもらった地名であろうが、今後の研究の種になりそうではある。



参考

額田王の故郷の長門国豊浦郡の額田一族の歴史:

額田部広麻呂(ぬかたべの-ひろまろ)、奈良時代の官吏。長門(ながと)(山口県)豊浦郡の郡司をつとめ,天平(てんぴょう)12年(740)の藤原広嗣(ひろつぐ)の乱では兵40人をひきいて九州にわたった(コトバンク)。

『続日本紀』によれば、天平神護3年(757年)4月には長門国豊浦団毅外正七位上の額田部直塞守が銭と稲を献じて外従五位下を授かり、豊浦郡の大領に任命された。毅は定員500人以下の軍団の長である(wikiより)。



穴門国造(長門) あなとのくにのみやつこ:

穴門国造は穴門国(現・山口県西部、下関市周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると景行天皇(12代)の時代、櫻井田部連(さくらゐのたべのむらじ)と同祖の邇伎都美命(にきつみのみこと)の4世孫である速都鳥命(はやつとりのみこと)が国造に任じられたことに始まるとされる。凡河内氏と同祖の天津彦根命(あまつひこねのみこと)の裔孫との説もあるが、孫の践立(ほむたち)が穴門直(あなとのあたい)を賜姓され、国造家を世襲し、後に穴戸直・額田部直・神田直・賀田直等に繋がり、賀田直の後裔は長門住吉荒魂神社祠官家として奉祭し山田姓となったという。

日本神話に穴戸神が登場するように古く関門海峡付近は穴門(穴戸)と呼ばれ、穴門・阿武国造の領域を合わせて穴戸国となった。豊浦郡にあった国府は、古事記・日本書紀では穴門の豊浦宮と記されている。下関市の仁馬山古墳は県下3番目の規模であり、被葬者は地域最大の首長級、又は践立や近親の者と推定されている(参考)。


『やすおか史誌』平成2年 P614:

玄空寺にある宝物の紫雲山十一面観世音菩薩木造1尺8寸の縁起によると、安岡観音岬(かんのんばな)に、もと紫雲山東福寺という寺があって、その境域を紫野と呼んでいた。安岡の村﨑ノ鼻は「紫野」 とも表記される。また、村﨑ノ鼻には前方後円墳の観音岬古墳がある。


近畿の地名との関係:

仲哀天皇ゆかりの穴門の豊浦宮(あなとの とゆらのみや)、山口県下関市長府宮の内町の忌宮神社が伝承地(wikiより)。

592年12月、額田部皇女が明日香の豊浦宮(とゆらのみや)で即位し推古天皇となる(参考)。

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明日香村の豊浦宮

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東大阪市の元春日神社とよばれる枚岡神社の近くに、豊浦や額田などの地名がある(参考)。

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枚岡神社、神武東征神話に出て来る

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大和郡山市には豊浦と額田部の地名がある

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定説では近江の蒲生野(赤点、がもうの)であるが、紫野や標野が見当たらない。豊浦の地名が安土町内に見つかったが、額田の地名は付近に無かった。


近江の国の蒲生野(がもうの、古代「かまふの」と読んだかは?):

滋賀県中南部の愛知(えち)川中流左岸の台地。東近江(おうみ)市西部、近江八幡(おうみはちまん)市東部などの範囲をいう。古代には狩猟の場で、額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)の相聞(そうもん)歌「あかねさす紫野行き……」(『万葉集』巻1)で知られる。歌碑が舟岡山にある。中世以降、その開発が進み、現在では農業用地が広がる。[高橋誠一](コトバンク)



穴門の豊浦宮と飛鳥の豊浦宮はともにトユラノミヤと訓み、トヨウラとかトヨラでは無く、密接な関係がある。






Google検索では、標野(しめの)が禁野(きんや)とする解説の用例はこの万葉集巻1・20番の歌のみで、これでは根拠にならない。





近江国の蒲生郡の蒲生野は669年に入植した百済人が命名した可能性が高い。従って、額田王が歌った蒲生野の舞台は668年であり、時期的にずれている。