武内宿禰は天皇であった?! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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武内宿禰の身の上には面白いエピソードがある。成務天皇と同日に生まれ、大臣に任命され寵愛された。また宿禰の子供と仁徳天皇は同日生まれで名前を交換したとか!

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同日生まれと言うエピソードには、何か重要な示唆が隠されている様だ!即ち、成務天皇が武内宿禰になって、宿禰の子供が仁徳天皇になったと考えて見る。つまり、婿養子か何かのやり方で家系を交差させたと考える。そうすると、仲哀天皇の不審死や応神天皇の不審な誕生などの王朝の不連続疑惑に対し、現王朝の万世一系神話が保たれる。また、武内宿禰の立場や彼の末裔達、葛城氏や蘇我氏の大臣達の振る舞いについて納得させられる。

実際はどうだたったかは不明であるが、応神天皇の誕生から乙巳の変(645年)の間の現王朝と武内宿禰の末裔達(葛城氏、蘇我氏、紀氏、巨勢氏、平群氏など)との関係が如何に密接に絡み合っているかが理解できる。



❶ 武内宿禰の末裔の蘇我氏は紫の冠の着用にこだわった(参考)

❷ 武烈天皇の後、応神天皇の五世孫の継体天皇が後を継いだが、現王朝が応神天皇の真の後裔となったことを意味するのであろうか?


参考

① 武内宿禰の子供と仁徳天皇は同じ日に生まれたので名前を交換した(日本書紀、
参考)

仁徳天皇元年の春正月の丁丑(ひのとうし)の朔己卯(つちのとう―3日)に、オオサザキの尊が天皇に即位しました。応神天皇の皇后を尊んで、皇太后としました。仁徳天皇は難波に都を作りました。これを高津の宮といいます。

仁徳天皇は宮垣、室屋に漆喰を塗りませんでした。柱や梁などにも色を塗って飾らせませんでした。屋根にカヤを葺く時も、切り揃える事はありませんでした。それは、天皇個人の事で、人民が耕作したり、機織りをする時間を奪わないようにという配慮からでした。

始め、仁徳天皇が生れる日には、ミミズクが産殿に飛び込んできました。その翌朝、応神天皇は大臣・武内宿禰を召して「これは何のしるしだろうか。」と尋ねました。

大臣は「吉祥です。たまたま、私の妻が出産したのですが、ミソサザイが産屋に飛び込んできました。これまた不思議な事です。」と言いました。

この時天皇は言いました。
「今、我が子と大臣の子と、同じ日に生まれたとは。どちらも吉瑞があった。これは天の表(しるし)だ。思うに、その鳥の名を取り換えて、お互いの子に名付けて、後の世の契りとしよう。」と。

そこでミソサザイ(サザキ)の名前を太子(仁徳天皇)に付けて、オオサザキの皇子としました。ミミズクの名を大臣の子に付けて、ツクの宿禰としました。これは平群臣の始祖です。この年、太歳がありました。


② 成務天皇と武内宿禰は同じ日に生まれた(日本書紀)

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③ 仲哀天皇の不審死と、応神天皇の不審な誕生(古事記、参考)

仲哀天皇は九州のクマソ(熊襲・熊曾)を討伐していた。するとある日、「西に金銀財宝豊かな国があるので、それを与えよう」と神託があった。山に登り西を見るが、何も無い。仲哀天皇は何かの間違いと神託を無視し、結果死んでしまう。 この後は妻である神功皇后が応神天皇を懐妊したままで、神託の通りに「三韓出征」へと向かう。


③ 応神天皇(ホンダワケ)と気比大神(イササワケ)の名前の交換(古事記、参考)

三韓出兵した神功皇后が後の応神天皇である赤ん坊を生みます。この赤ん坊と名前を交換したのがイササワケ命です。つまり応神天皇の幼名ホンダワケは、元々はイササワケ命の名前であり、応神天皇はかつてイササワケだった、ということです。名前を交換する、という行為は古代では、配下になるという意味を持っています。


④ 天皇系図

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