神功皇后と武内宿禰は同族の海人族安曇氏で秦氏を日本列島に招いた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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和歌山市の武内神社の祭神は武内宿禰であり、当地で誕生したとか!和歌山市から紀伊半島一体は海人族安曇氏の集住の地であり、武内宿禰の末裔の紀氏の根拠地であった。

武内宿禰と母、山下影姫は和歌山市あたりの他、北九州あたり出身の海人族安曇氏と言う説が有力である。また、神功皇后の母は若狭湾あたりの海人族安曇氏の出であった。

すなわち、三韓征伐の後、応神天皇が誕生したあたり以降に秦氏の渡来が増えた史実に、海人族安曇氏の紀氏や葛城氏の活躍があったと推測される。



武内宿禰の末裔の蘇我氏は紫の冠を被る大王であった(参考)


参考

① 武内神社、和歌山市松原97(参考)

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祭神 武内宿彌 

由緒 

近くに武内宿彌誕生井がある。 この当たりで生まれたとされる。紀氏の傍系であったが、本流途絶えたこともあって本家になった。 数代の天皇に二百年以上仕えたとされているが、子々孫々同じ名前を名乗る事は、商家、役者等にもある。 

日本書記には武内宿彌を祖とする氏族として波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏をあげている。天皇家以外の大臣の系譜が詳細に記されているのは珍しいとされている。 権力中枢における紀氏の大きい力を証明するものとの説もあるが、それよりも武内宿彌が限りなく大王に近い存在であったと理解しておく方が正しいと思われる。 

武内宿彌を祖とする各氏族と同じ地名が福岡県の中央部の甘木市の周辺と大和(紀氏は肥前基肄郡と紀伊)に分布している。集団での氏族移動のあったことを示唆している。


② 紀氏(参考)

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③ 武内宿禰

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④ 紀伊半島あたりは海人族安曇氏の集住の地(参考)


⑤ 海人族安曇氏の根拠地は福津市の宮地嶽神社(参考)


⑥ 武内宿禰の末裔は北九州から東遷した(参考)


⑦ 神功皇后の母は紀氏と同族の葛城氏の末裔(参考)


⑧ 神功皇后は若狭湾の敦賀あたりで生まれた(参考)


⑨ 伊太祁曽神社、紀氏の氏神、和歌山市(参考)


10 秦氏は下関市経由で大阪(河内平野)に入植した(参考)


11 応神天皇は下関市で誕生した伝承がある(参考)


12 応神天皇の時代に渡来した秦氏の由来(参考


13 新羅征伐(三韓征伐、参考)

仲哀天皇の急死、仲哀天皇9年(200年)の後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀天皇9年(200年)3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、熊襲を征伐した。ついで住吉三神より、再び新羅征伐の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。後の応神天皇を懐胎したまま海を渡って新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。