地質の観点からみた穴戸豊浦宮の所在地 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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現在の下関市の長府は長門国府であったが、さらに古代の穴戸豊浦宮では無かった。穴戸豊浦宮は下関市の西部の川中地区辺りであったと考えている。

長府は古代から今でも土砂崩れなどの恐れが大きく、国府向きでは無かった。

参考

① 山口県の地質

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下関市の長府地域から瀬戸内海沿岸は風化した真砂土が広く分布する花崗岩地質であった。


② 下関市の土砂崩れなどのバザードマップ

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下関市の川中地域は浸水の恐れはあるが、土砂崩れなどのバザードはなかった。

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下関市の長府地域は風化した真砂土が広く分布する花崗岩地質であり、土砂崩れのバザードがあった。古代の国府として不向きな地域であった。


③ 古代は現在より緑が少なく、土砂崩れの恐れが大きかった(参考)


④ 9世紀前半、銅の鋳銭所が長府から防府に移された(参考)

長門鋳銭所跡は、忌宮神社の隣り、覚苑寺境内一帯と考えられ、奈良・平安時代に銭貨の鋳造を行った所です。長門国衙に付設され、その開設は和同年間(708~715)で、史跡地内からは、和銅1年(708)から鋳造が開始された貨幣である和同開珎1枚と、それを作ったときの型、るつぼや鞴口などが出土しており、これも長門国鋳銭遺物として国の重要文化財に指定されています。長門鋳銭所は、天長2年(825)に廃止され、鋳銭所は周防国(山口市 鋳銭司)に移されました。


⑤ 穴戸豊浦宮と長府国府(参考)


⑥ 長府は国府とするには最悪の立地条件にあった(参考)