古代の奴国、すなわち福岡市の内陸部の国が中国の漢の皇帝から金印を授けられた。しかし、発見場所が志賀島と博多湾の小島であった!
これに対する一つの解答を提出する。すなわち、当時の奴国は稲作の水田と居住地ではあったが、度々の洪水のために、大事なお宝の保管場所としては洪水などの災害の無いところを選んだのであろう。
邪馬台国の卑弥呼がもらった「親魏倭王」の金印も居住地から離れた風水害や地震、さらに盗難などの災害の少ないところに保管されていると推定される。すなわち、宗像の沖合にある沖ノ島のような地から発見されると推定する。
① 金印発見の最大の謎(参考)
玄界灘に面した博多湾の入口に、海の中道という砂嘴によって結ばれた小さな島がある。志賀島と書いて”しかのしま”と呼ぶ。この島は、全長205mの志賀島橋が昭和6年(1931)に架けられて初めて九州本土とつながった。それ以前は文字通り玄界灘に浮かぶ離れ小島だった。江戸時代の天明4年(1784)2月、この島の叶の崎にある水田から甚兵衛という百姓が、「漢委奴国王」と刻まれた金印を発見した。
奴国の中心があったとされる福岡県春日市の須玖(すぐ)・岡本遺跡付近からかなり離れた小島の海岸で金印が発見されたことである。 そのため、考古学者や歴史学者は金印出土地に関してさまざまな説が出しており、金印遺棄説、金印隠匿説、墳墓説、支石墓説、磐座説、祭祀遺跡説など実に多岐にわたる。
② 治山・治水の進んだ現在の御笠川浸水想定区域図