白村江の戦いの後の土塁・石塁と元寇の時の石塁について | 日本の歴史と日本人のルーツ

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白村江の戦いの敗戦(663年)の後の唐と新羅の連合軍に対する防衛の為の朝鮮式山城や水城は神籠石と版築土塁であった。これに対し、後代(13世紀)の元寇時は沿岸に沿って石塁を築いたとある。

しかし、下関市の室津湾岸に残る元寇(参考)の遺跡はこんもりした土塁であった室津湾岸は花崗岩の風化した真砂土の地質で、考古学的に調べて見ないと断定出来ないが版築土塁の方が適していた。ただ、古老の話では土塁の前に石塁もあったとか!すなわち、白村江の戦いの敗戦後の土塁に元寇当時の石塁を追加した可能性も考えられる。ただし、更に幕末の台場建設に流用された可能性や第二次大戦の塹壕掘りによる破壊もあり、即断は出来無い。

長門城かどうか議論のある鬼ヶ城山の山頂近くの遺跡は谷間を跨ぐ石垣こそ無いが、山崩れを防ぐ石塁(神籠石山城の石組み)であった(参考)。

地政学的に北浦海岸は常に夷狄の侵攻の可能性があり、白村江の戦いの敗戦(663年)の後に築いた土塁や石塁に元寇の時に石塁を追加または改修、再利用した可能性も考えられる。特に、鬼ヶ城山の場合、籠城と言うより監視が目的と考えられ、また大野城のある四王寺山のような花崗岩の山では無かったので、いわゆる朝鮮式山城の形式である必要は無い。

ここで調べた元寇の当時の土塁や石塁の規模に比べ、太宰府市の水城や大野城などは高さや長さで規模が大きく(参考1参考2)、下関市の長府にあった土塁もまた規模が大きかった(参考)。白村江の戦いの敗戦後に築かれたとされるものは四王寺山などの花崗岩地質の土砂崩れ対策も考えられ、後の元寇当時の石塁などとは設計思想が全く異なることを指摘したい。


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鬼ヶ城山は北浦海岸から響灘を見渡され、夷狄の来襲を監視し易い山であることは、逆に夷狄の渡海の目標になり易く、室津湾岸は常に戦場になる可能性がある。


参考

①-1 元寇の再来襲に備えたと言われる防塁(参考)、、、石塁では無く土塁??

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山口県下関市豊浦町大字黒井850(下関ゴルフクラブ)

元寇防塁。長門にも元寇防塁が造られたという話があり、下関に元寇防塁とされるものが残されている。現在は下関ゴルフ倶楽部の中にあるのでクラブハウスに見学の依頼をする必要がある。尚、現地の看板によると長門国の室津に上陸 した杜世忠を正使とする元使を鎌倉の龍の口で斬首したあとに鎌倉幕府の命により、沿岸防備を固めることになり、この防塁はその遺跡の一つであるという。


①-2 今はわずかに土塁の跡が見られるだけであるが、古老の話によると、以前はこの土塁の前方に石塁があったということである(参考)

、、、奇妙な話??石塁は元寇当時のもので、ここにある土塁は白村江の戦いの敗戦後のものか??


①-3 長門石築地請取(参考)

長門国に元寇の防塁が築造されたことをうかがわせる史料が、出雲大社の千家文書に一通残っている。この文書は康永二年(一三四三)三月十六日付の和与文書(所領の土地を譲与する時、あるいは和解して提起した訴訟を取り下げる時などに和与という言葉が使用される)の目録中に、「長門石築地請取 うせて候やらん、いまだえらびいださず候なり」とあるものである。

但書に、正文が紛失しまださがしだすことができない、とあるように内容を示す文言がないが、その内容は、長門国の石築地で何日間か元軍に対する警固番役を勤めた時のものであろう。長門国のどこかに石築地が築造されていたことを証明するものである。

当町黒井八ヶ浜には元寇防塁跡と言われる土塁がある。ゴルフ場内に僅かに残る元寇防塁跡の土塁前方には、かつて石組があったと古老達は語っている。この土塁が元寇防塁と言われはじめたのは、どうもそう古い事ではないようである。管見のかぎりではあるが、江戸時代迄の史料にはすくなくともこうした伝承は見当たらない。

現在、元寇防塁跡と呼ばれている土塁は、土地の人が「台場」と呼んでいるところである。江戸時代の後期の嘉永二年(一八四九)、吉田松陰が北浦の海岸を巡見した時、「涌田・青井の台場、室津浦の台場、甲山の台場を遠見す」と書いているのが、この場所である。

豊浦町郷土文化研究会は昭和五十三年、現在ゴルフ場となっている台場跡附近を発掘調査したが、この時右図のような石組みがバンカー下から発見された。このバンカーは海岸線からおよそ八〇メートルの位置にあり、発掘調査を指導された中村省吾氏によれば、この敷石はバンカーを中心に北西に一五〇メートル程続いており、その敷石の延長線上に台場の土塁があるということである。

この海岸線は地質学的に石塊のない場所であり、石塊が横一列に人為的に置かれていることは、きわめて注目される。ただ、惜しまれるのは、台場の前方あたりに露出していたという石塊が家の造作や庭作りのため、全部持ち去られたり、今次大戦末期、旧日本軍の塹壕造りによって掘り乱されたため、往時の形態が破壊されたことである。

博多湾岸の石築地の遺跡は、高さ約二メートル、底部の広さ三メートル、海に面した側を切り立たせ大きな石を使用している。内側にはゆるやかな傾斜がつけられ、内部には小石がつめこまれている。現在はほとんど崩壊して原形を残していないが、復元すればかなりの規模である。これだけの規模を持つ石築地が長門に築造されたとすれば、まず、元使杜世忠が着岸した室津は最も有力な場所の一つにあげられよう。

室津の海岸線にその遺構をもとめた場合、やはり元寇防塁跡と伝承される土塁と、敷石がやはり最有力の遺構である。博多湾岸の石築地の構造・規模は前述したとおりであるが、構造はある程度異なっていても不思議ではなかろう。そこで注目されるのが相当量の赤土である。私の憶測が許されるならば、まず、赤土で防塁を築造し、その周囲に石を積んだのではあるまいか。赤土は、江戸時代の後半築造された、いわゆる台場構築の際使用されたことも考えねばならないが、石築地の遺構を転用して台場構築がなされた可能性もすてがたい。しかし発掘調査もバンカー部分のみであり、他の個所の調査はなされていない。甲山の台場跡などの構築状況などとあわせ、本格的調査がなされて後に、結論を出すべきであろう。


② 元寇の再来襲に備えた石築地(石塁)の建設、北九州(参考)

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「文永の役」の後、元のフビライはすぐに再征を決意し、博多湾岸の戦闘から三ヶ月半たった建治元年(1275)の二月に日本に使者を送っている。その使者たちは鎌倉に到着するや、全員斬首され曝し首に処せられている。

また幕府は、同年の三月から博多湾沿岸から長門にかけて「石築地 (石塁) 」という石垣の要塞の建築を九州等の御家人たちに命じている。もちろん、元との戦いを想定してのことだ。


③ 石築地の絵、北九州(参考)

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高さ・幅は平均して2メートルある。総延長は、西の福岡市西区今津から東の福岡市東区香椎までの約20キロメートルに及ぶというのが定説になっている。内部には小石を詰め、陸側に傾斜を持たせて海側を切り立たせている。

現在は、埋め立てなどにより鎌倉時代当時よりも海岸線が沖へ延びているため風化し、土中に埋没している部分が多いが、福岡市の今津地区(西区)、生の松原(西区)、西新(百道)地区(早良区)、地行地区(中央区)などは国の史跡として整備され、露出した状態になっている。


④ 下関市の室津湾岸に石塁の建設(参考)

文永の役(一二七四)後、鎌倉幕府は西日本の海岸防禦を強化するよう命じた。のちに『蒙古襲来絵詞』を遺した肥後の竹崎季長は文永の役一番駆けを認めてもらう為、鎌倉に向かい、途路長門に入り、烏帽子親の長門守護代三井宮内左衛門尉資平に逢い、援助を受ける。この場所が不明だが、三太屋敷またの名は鎌倉使節屋敷(下関市冨任別府、三太屋敷)か長門守護代屋敷(現下関市長府亀ノ甲の立善寺付近(筆者推定))のいずれかである。建治元年末、守護の大更迭があり、西日本の多くは北条一門になり、筑前では建治二年(一二七六)、石築地の築造が始まり、姪浜の鷲尾山に城を築き、鎮西探題として北条一門が任じられる。弘安の役後も弘安七年(一二八四)岩門城を築き、高鳥居城(篠栗、須恵町境、三八二メートル)は永仁元年(一二九三)鎮西探題北条兼時に従い、長門の河津筑後守貞重が築いた。石見には元寇十八砦が挙げられている。

長門においては、建治元年(一二七五)正月、長門周防守護に北条宗頼が下着し、四月十五日、元使杜世忠一行が室津浦に着く。三井資平は、一行の内五人を長府に引率、長門探題北条時直は引見後、大宰府に送る。室津湾岸に石塁を築き、甲山に見張所を置き、警戒を厳重にする。元使五名が鎌倉竜ノ口で斬られた後、室津に残っていた、従者・船乗り四十名が斬られ、八ヶ浜に四十塚として残る。数人は逃亡し、靴を片足、甲山河原海岸に落とす(豊浦町烏山民俗資料館蔵)。守護北条宗頼は弘安二年に死去、その子兼時が守護になる。

弘安四年(一二八一)六月、東路軍の一隊が室津に現れ、攻撃。先に杜世忠に従って、室津に拘留された船員数人が逃亡して四年後に帰国し使節斬首を報告、これが案内し、敵討ちと、攻めて来た。長門だけでなく、中国・四国の武士も固めていたが、石塁(長門石築地)の高さ・長さが不足していたのか、東路軍の上陸を許し、石塁を越えられる。


⑤ 鬼ヶ城山の石組み(参考)、、、調査者が石垣と石塁の違いを誤解している(地質により水門の石垣は不必要)。

鬼ヶ城には数多くの石組みが在る。これが長門城説に繋がっていった。豊浦町史編纂委員会が鬼ヶ城に長門城の調査団として現地調査を行い、小田富士雄先生(福岡大名誉教授)も踏査に登られたが、未だ結論は出ない。筆者は鬼ヶ城(標高六二〇メートル)から狩音山(五七七メートル)の間の西側(海側)の谷と尾根を全て歩き、中腹の谷筋の海抜三〇〇から四〇〇メートル付近に計十二基の石組を確認した。これは石垣ではなく、石塁である。従って、長門城ではなく、元寇、弘安の役後の第三次の元寇に備えた防塁で、山城になる。この十二基の石塁の位置を、GPS(全地球測位システム)を使用して特定した。


⑥-1 鬼ヶ城山の山頂付近の版築土塁(参考)


⑥-2 鬼ヶ城山の石塁(参考)

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見た感じ、神籠石山城の様相である。時代は新しそうであるが、山崩れを防ぐ目的が読み取れる。

現在、朝鮮式山城と神籠石山城との区別は無くなっているが、石垣の水門は無くても構わない。従来の調査者は多くの神籠石山城にある典型的な谷間を跨ぐ水門の石垣(砂防ダム)の存在を誤解している。光市の石城山神籠石と比較してみて欲しい(参考)。


⑦ 19世紀後半の幕末の長州藩の沿岸に築かれた台場は、砲台の設置が目的であり、土塁としては小規模なものを多くの箇所に築いた(参考)


⑧ 元寇に対応した長門探題に関連する山城などが、花崗岩地質の同じ山系にあり、これらとの区別が必要である(参考)

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南側の土肥山城と櫛崎城は除く


⑨ 室津と甲山について(参考)


10 元寇に対峙した長門探題は下関市安岡町冨任にあった(参考)