長府の忌宮神社から北北東へ延びる土塁を散策して発見した売土地から、この土塁の進化が理解出来る。すなわち、こんもりと盛り上がった土塁に広い土地を確保するため、土地の低い方に土留めの擁壁を作り、現地の土(真砂土)や瓦礫を搬入していた。土を削るのでは無く、土を運び込んで平地を作っていた。
つまり、長門国府を現在の忌宮神社あたりに設置した時(7世紀後半)、北北東に伸びた小さな土塁を造成して居住地を作り(参考)、およそ1400年をかけて拡大させて来たことが理解できる。この土塁の上は四王司山からの土砂崩れや周防灘からの高潮から安全であった(参考)。このように長府の町は人が住むのに適すとは言いがたかった(参考)。
元の核種となる古代の土塁は地盤を強固にする版築であったかも知れない(参考)、しかし現在は各種の土が積み重なっていると考えられる。すなわち、考古学的調査をさらに行えば、表面には現代の土や瓦礫があり、深く掘れば古代の遺跡が出てくると期待される。
参考
① 土塁の上の土地
売土地①の現場、土塁の傾斜地の上手、瓦礫が混じった残土を搬入していた。
売土地①の現場、土塁の傾斜地の下手の擁壁
マンションの敷地、建設前の発掘調査報告(参考)
ある民家の敷地の擁壁
② 忌宮神社付近の土地と道路
傾斜地の道路がオリジナルな地面を保存し、忌宮神社の境内地や民家の土地の方が後から造成されたと考えられる。
⑤ 発掘調査報告書(参考)
⑥ 土塁の北端部は未完であるが、計画されていた(参考)
⑦ 町の拡大に合わせて土塁を延長させていた(参考)