長門国府の長府は長門国の中心とするには最悪の立地であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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長門国府があった長府の立地を考えると、北は花崗岩の土砂崩れ地帯(現在の中土居本町)、東は船を自由に出せない干満の差の大きな遠浅な干潟であるが高潮の恐れもあるところ、南は一山越えると流れが激しい関門海峡(早鞆の瀬戸)、西は山越えとなる。

海と山に挟まれた旧山陽道と西への山越えの逢坂が抜け道であり、長門国を支配するには不便な地であった。唯一の長所は響灘から北浦海岸や関門海峡に侵入する夷狄が瀬戸内海に突き進むことを遮ることであった(参考)。


参考

①-1 長府海岸(参考)

写真のとうり、干満の大きな遠浅な潮干狩りが出来る海岸であった。

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①-2 干潮時には海底が顔を出し舟を運行出来なかった(参考)


② 高潮バザードマップ

旧海岸線から海側の埋め立ては高潮の恐れがある。

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水色あたりが高潮の範囲


③ 現在の長府海岸と漁港

満珠島・干珠島を正面に見る長府唯一の漁港は埋め立て地の東端にあり、昔の海岸より沖合いに位置する。



④ 豊浦団(参考)

国府防衛といえば、長門城築城とともに、豊浦の地には、防人達の軍団、「豊浦団」も置かれた。また、瀬戸内海を横行する海賊の取り締まりや新羅賊船の侵入などの備えとし、最も多いときには、1000人を超える海関警備隊が組織されていたといわれている。

しかし、1000人の防人を出動出来る港は無かった。


⑤ 壇之浦(参考)

早鞆の瀬戸にある壇之浦は神功皇后伝説に基づけば長府海岸あたりのはずであるが、長府は考古学的に7世紀後半の長門国府設置以降に現れた町であり、矛盾する。


⑥ 長府の町は今でも土砂崩れの恐れのある危険な町である(参考)


⑦ 長門国衙は無かったかも知れない(参考)


⑧ 元寇に対峙した長門探題も長府では無く、安岡にあった(参考)