8から9世紀の遺跡であるが、外国の賓客を酒で振る舞う接待施設が響灘に面する綾羅木川付近にあった。小字地名から要須(要津、ようづ)遺跡の名付けられた。
すなわち、外国からの賓客は響灘に面した本州の西海岸の北浦海岸に上陸してから接待され、その後、周防灘側の長府なり、旧山陽道や瀬戸内海航路を通って、大和を目指したと考えられる。やはり、危険な関門海峡を直接、通過してはいなかった。日本書記(720年)に記載された穴戸館の最有力候補である。
参考
① 下関市立考古博物館の報告書
綾羅木川付近の下関市伊倉町・川中本町の要須遺跡から、8から9世紀ころの官衙的遺跡で、外国の賓客を酒で振る舞う接待施設が見つかった。この辺りは記紀に記載された穴戸豊浦宮の考古学的存在が考えられ、この宮の海岸縁にある接待施設である穴戸館の最有力候補とも期待される。
③ 穴戸館の場所の検討(参考)
④ 伝教大師最澄の長門国帰還(参考)
⑤ 朝鮮半島、対馬、沖ノ島との交流があった(参考)
⑥ 下関市秋根地区あたりが穴戸国(参考)
⑦ 西海岸の鼻ヅラに黒崎妙見社があった(参考)
⑧ 穴戸国に導く海の灯台の神社(参考)