遣唐使の帰路、最澄は対馬経由で長門に帰国 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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遣唐使として入唐した最澄は帰国ルートとして、対馬経由で長門に着岸したとか!宗像大社の伝説では沖ノ島も経由しているとか!すなわち、長門への着岸は事故では無く、宗像の船で守られての計画通りの行動であった。すなわち、これは特殊ケースでは無く、他の帰国船についても本州本土に直接上陸するケースは少なく無かったと考えられる。

楊貴妃が長門市の向津具半島の唐渡口に空海は下関の筋ケ浜に、吉備真備は長門市の仙崎に流れついた伝説もある。古代、神功皇后の下関の吉母への直接帰還の伝説もある。遣唐使などの日本の船は公式には博多から出国し、不合理にも同じルートをなぞって元の博多に戻ってくることになっており、外国船は当然、博多に入港することになっている。しかし、実際には他の港に上陸する可能性の方が合理的であり、本州本土、すなわち長門に直接に上陸した伝説の方が正しいと思われる。

対馬海流の流れを考えると、対馬から出航した大和向けの我が国の船は、沖ノ島経由で本州本土に直行する方が合理的である(参考)。もちろん、外国船は強制的に博多に曳航されるのであろうが!


参考

① 最澄、長門帰国説(参考)

最澄が還学生として、延暦23年(804)に入唐求法の旅に出かけましたが、翌年5月18日に遣唐大使とともに明州を出帆して帰国の途に着きました。帰途の航海は順調であったようで、6月5日に対馬の国(現長崎県)に到着し、対馬をへて長門の国(現山口県)に着岸して帰国しました。

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帰国後、最澄はただちに入唐留学によって請来した経典や注釈書類など230部460巻を記した「請来目録」を桓武天皇に提出いたしました。そして、最澄は入唐留学で研鑽を積んできた天台宗の布教に天皇の助力を願い出ました。桓武天皇は、最澄が持ち帰った天台関係の経典や注釈書を天下に広めるために、南都七大寺に書写を命じました。さらに、大安寺の勤操などの三論や法相宗の聡明な学僧に天台教学の論議を命じました。

桓武天皇は、最澄の要請を受け天台教学を広めるために助力をおしまなかった一方で、最澄に入唐留学で修得した順暁伝授の密教にもとづく灌頂を催すことを命じました。この命を受けて、最澄は外護者の和気弘世の氏寺である高雄山寺で、延暦24年(805)9月に、わが国最初の密教灌頂が、大安寺の勤操や興福寺修円などの南都諸寺僧と最澄の弟子円澄を加えた8人の入壇者をもって催されました。

灌頂とは、古代インドにおいて国王の即位などの式典の際に、四海の水を頂きに注ぐ儀式を密教が採用したものです。灌頂の種類には、内容・目的・形式等で多くの分類がされるといわれています。灌頂儀式には、一般に結縁・受明・伝法の三種類があることは知られています。結縁灌頂とは、壇上の曼荼羅(敷曼荼羅)に花を投げて、落ちたところの仏菩薩と縁を結ぶもの。受明灌頂とは弟子になることを許されるもの。伝法灌頂はもっとも重要なもので、修行を終えて師匠の位を得ることを意味する灌頂であるといわれています。その他、印法灌頂、以心灌頂などの各種灌頂が密教辞典などに取り上げられています。

最澄が桓武天皇の命で、高雄山寺でおこなった灌頂はどのような内容の灌頂儀式であったかは明らかではないようです。ただ、大日如来画像と曼荼羅図が新たに描かれ荘厳されたと伝えられています。その真実のほどはわかりませんが、この灌頂の秘法の勤修を、桓武天皇が最澄に命じた背景には、当時、病床にあった桓武天皇が新来の密教秘法に病気平癒を願ったのではないかとみる説があります。

その説の根拠になっているものに、最澄の弟子で、この時の灌頂の入壇者でもあった円澄入滅の際の業績を記した『続日本後紀』の天長10年10月20日の条に伝える「円澄卒伝」中に「大法師修円、勤操等七人を受法の弟子として、清龍峯高雄山寺において、桓武天皇の御ために毘盧遮那の秘法を修す」とあることから、密教尊の毘盧遮那(大日如来)の威力で病気平癒を願って、最澄に桓武天皇が命じ、南都の高僧に受者として出仕を強いることになったのではないかとみる説です。

この説のようなことが、最澄によるわが国最初の「密教灌頂」を催す背景にあって、かえって協力的であった南都諸寺が最澄に対して強い反発をもたらすことになり、その後の最澄による天台宗教団の整備にあたって両者の確執が絶えなかった争いの発端の一因にもなったのではとも考えられています。

いずれにしても、和気氏の氏寺の高雄山寺は、平安仏教の立役者の雄である天台宗を開宗した最澄が、世に知られ重要な舞台を提供したことについては歴史的事実であります。次に、最澄とも交流をもちながら、平安仏教の立役者になっていった真言宗の開祖弘法大師空海と高雄山寺との関係に触れていきたいと思います


② 最澄、長門帰国説(参考)

天台山に赴かれ、天台大師直系の諸大徳から天台の奥義を伝受し、たくさんの経巻を書写し、併せて当時中国に行なわれていた禅や、律や、真言密教も伝受されて、延暦二十四年(仏1370・西805)六月に対馬から長門へと帰着されたのであります。これをもって上人は正式にかつ完全に天台の教を伝えることができたとともに、真言、禅、戒の三宗を合わせて伝えられたことになります。特に真言密教に関しては、その年の九月には既に高雄山寺において、日本で最初の密教儀式である灌頂(かんじょう)を行なっていられます


③ 福岡県古賀市内の地名伝説、花鶴
(
参考)

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昭和60年の「古賀町誌」p.408 町の伝説と民話蘭に、つぎのように書かれています。伝教大師が天台の法を修め、顕密二教を授かり唐から帰朝されるとき暴風
におそわれ、古賀の浜に打ち上げられた。
古賀の浜の小高いところでお休みになっていると、数百羽の鶴が、舞い降りた。
大師は思わず「快哉、如花鶴」と呼ばれた。これが「花鶴川」名のおこりである。

この伝説は新宮町でも広く知られており、その出典は風土記などでしょうが、不詳です。
古賀市郷土研究会では、つぎの理由でこの伝説を、史実としては否定しています。(
平成19年発行  古賀市市制施行10周年記念誌  うるわし p.139)

1) 「叡山大師傳」によれば、最澄は6月5日に対馬を出て、順調に航海し長門国(山口)に到着しています。
2) 旧暦6月下旬の海岸に鶴が存在するのは不自然です。

その後の地名研究では、次のような説が有力です。
1) 糟屋の屯倉の管理族に、布津留物部がこの地区にいた。(
続日本紀712)
2) 布津留が華津留の好字に変化した。(華は宋音でフとなる)
3) 全国の地名を二文字にするとき、「華鶴」となる。(延喜式967)
4) 近年の嘉名化により、現在の花鶴となる。

ただし花鶴川河口には、最澄の銅像を中心とした花鶴公園が数年前建設されています。地元有志による資金であり、伝説の力は有力です


④ 宗像大社には「きじ馬伝説」というものがある。伝教大師・最澄が遣唐使に同行して中国に留学していたとき、そこで一頭の白馬(しろ)をとても大切にしていたそうです。でも、船で帰国する際に連れていけない。泣く泣く置いて帰るのですが、大師を乗せた船が嵐で遭難しかけるわけです。それを知った白馬は、海の神から羽を授かった天馬「きじ馬」となり、伝教大師を沖ノ島まで送り届けたという伝説です(参考)。

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⑤ 最澄は対馬の西海岸の阿連から小船越を越えて東海岸に出て、ここから玄海灘、沖ノ島、響灘を渡海して長門国に着岸した(参考)。


⑥ 空海の帰国(参考)

804年に(肥前国松浦郡田浦から)最澄と一緒に唐に渡った空海は20年の予定を繰り上げ、最澄の帰国より一年遅れて806年に帰国の途に着く。日本に帰国した空海は、外国客の宿泊施設でもあり使節団の宿泊所でもある大宰府の鴻臚館に入りました。

当時の帰国の手続は、まず、使節団一行が無事帰国したことを都へ知らせ、朝廷から発行された沙汰書をもらい、それを持って都へ向かうことになっていました。手続が終わって、高階真人遠成の一行は10月に京へ向かいましたが、空海は約1年間大宰府の観世音寺に留まっています。

20年の留学期間を2年で切り上げ無断帰国したことは重罪に値するため、ペナルティーとして入京が認められなかったといわれています。

大宰府の観世音寺に足止めされていた期間の空海の行動は、資料が無いため謎とされています。現在の博多に東長密寺という伽藍を建立したという伝説や、九州から山陽道にかけて神々の社を巡礼していたなど多くの伝説が残っています。この時期の空海について、唯一確実性の高い行動として「性霊集」には、大宰府の官職の亡母のために真言密教に法って法要を営んだことが記載されています


⑦ 空海は帰国後に直ぐ宗像大社に無事航海のお礼に参られ、別当寺の鎮国寺を建立した(参考)。