古代の官道の山陽道は通説では赤線のルートのとおり図示される。そして終点として、古代は野久留米街道の終点でもある前田が比定され、臨門駅であろうとされている。中世から江戸時代までは前田から関門海峡沿いの山道を通って赤間関に到達するルートを旧山陽道としている。ここから門司に渡ったと考えられている。
しかし、海岸沿いは最近まで高潮などの災害で不通になることがあった(参考)。
また内陸のルートも古代からあったことを指摘したい。
すなわち、考古学的には綾羅木川流域に穴戸豊浦宮があり、さらに7・8世紀を飛び越え、平安時代に入ると日常生活を示す遺物を伴う数多くの掘立柱の住居をもつ大規模な集落が出現している。それらのうち三面庇や四面庇の正殿と後殿や、それを取り巻く多くの建物跡から構成された一群は官衙的プランと構造を示すことから、長門の国司関係の邸宅官衙説と豊浦郡家説がある(参考)。
この大規模集落につながる道があったはずで、このルートも考慮すると、臨門駅は初めから赤間関(現在の唐戸あたり)と考えられる。
参考
① 江戸時代末期の伊能図の長府と赤間関あたり
文明19年(1487)西国の大名である大内氏は豊前、筑前、筑後など現在の福岡県のほぼ全域を支配していました。この頃、門司や赤間ヶ関(下関)は明との勘合貿易船の発着所となっており、大内氏はこの貿易を独占して行うようになりました(参考)。
関門海峡を往来する人や荷物も頻繁になり、やがて不当な船賃を取り立てる者などが現れ、大内氏の元へ頻繁に苦情が申し入れられました。
当時の領主である大内政弘は「大内家壁書」をつくり、その中で船賃を次のように定めました。
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右、渡り賃のこと、前より定をかるといえども舟方ども御法を破り、渡る人を悩ますことあらば、その舟方を関・小倉の代官所の所へ御引き渡し、代官の所より山口へ注進されたし。
次いで、江戸時代の下関の商人、伊勢屋小四郎(今の壇ノ浦町、阿弥陀寺町あたり、参考)の看板には、次のように記されています。
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もう少し時代が過ぎて、文化10年(1813)野田成亮の『日本九峰修行日記』には
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さらに安政6年(1859)河井継之助の『塵壷』では、阿弥陀寺より100文、内裏(大里)にて20文(払う)と書かれています。
こうして、続けて見ると時代と共に少しずつ渡し賃が値上がりしている事が、わかります。
③ 古代山陽道のルート、下関市北東部の清末から長府を結ぶ旧山陽道の他、現中国自動車道とほぼ同じルートの二通りがある。
注意、庚申塔そのものは江戸時代後期からであるが、徒歩での往来が多かつたことを示唆する。また、5、6、7、8、9の東西を結ぶ長安線ルートも古代からあった。
④ 関門海峡の潮流は前田あたりで最も早く、危険である(参考)
⑤ 江戸時代までの関門海峡は浚渫作業は無く、岩礁も多く横断は危険であった(参考)
⑥ 古代山陽道の臨門駅と穴戸館は違う(参考)
⑦ 旧山陽道(西国街道)と前田、臨門駅(参考)、、従来説
実際には、前田は古代から現在まで港となったことは無かったようだ(参考)
⑨ 平安時代から鎌倉時代の赤間関(コトバンクより)
10 赤間関は平氏ゆかり地であり、落人の上﨟(女官)達は赤間関に隠れることが出来た(参考)
11 江戸時代から幕末までの赤間関は朝鮮通信使の接待の他、シーボルト、アーネストサトウなどを接待した(参考)。
12 赤間関の地名、赤間は平安時代から(wikiより)
wikiの以下の説明は鎌倉時代以降のことであるが、関門海峡の地理的特性から平安時代にも通用する:
13 江戸時代の舟番所は入出国審査を行った
14 亀山八幡宮の東下付近に旧山陽道の起終点の碑が有る。
山陽道の西の起点・石の道標が、八幡宮鳥居下に移されて来ています。この道標は、本来はここから1㌔西の観音崎(現在の永福寺の階段下辺り)にあったようです。この寺の下から、山陰(北浦街道)・山陽道が分岐し、西の起点となる一里塚となっていたのです(参考)
15 古代から関門海峡を通過する伝説はあるが、赤間関の存在と役割については確証は無い。しかし、地理的に赤間関あたりが唯一の港であることは間違い無い。
赤間関の名前については赤間が旧事紀に記載されており、赤間関が古代から存在していたと考えられる(参考)
16 火の山は赤間関の港と関門海峡の灯台であった(参考)
17 引接寺が臨海館であった可能性がある(参考)