菅原道真と長門国司は同族で面会していた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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菅原道真公が下関市内の陸路を通行された伝説が残っている。しかし、長門国衙に立ち寄ったとか、国司と面会したとの伝説は無い。公の徒歩ルートを見ると、長門国衙に立ち寄ったと考えられる。

当時の長門国司は菅原氏と推定されるが、一族を無視して通過するとは考え難い。敢えて面会の為に下関市を通過したと考える方が妥当である。また、長府では忌宮神社の大宮司宅に滞在されたが、もしも長門国衙が長府にあれば国司宅に滞在するのが当然である。


参考

① 菅原道真公は長府の忌宮神社の大宮司宅に4、5日滞在、下関市南部町から関門海峡を眺め、西海岸の横野から小倉に舟で渡った(参考)


② 平安時代の下関市内の道路(参考)と菅原道真公のルート

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黒線: 菅原道真公の下関市内の旅程、1 忌宮神社、2 下関市南部町、3 横野、緑サークルあたりに長門国衙


③ 菅原道真公が立ち寄られた昌泰4年(901年)時点は不明であるが、長門国司に菅原宗岳が仁和4年(888年)から就任している。また菅原景鍳(従五位上)が延喜8年(908年)まで周防守、鋳銭長官を勤めている。後年のことではあるが、文暦元年(1234年)2月16日に北野天満宮が火災に遭い、再建のため菅原(高辻)為長が長門国を賜わっている。息子の五條高長も仁治3年(1242年)10月3日から長門守に就任している(参考)