土師氏、菅原氏による防長二州の支配 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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土師氏と菅原氏は同族であり、菅原道真公が立ち寄られた昌泰4年(901年)ころの時期に防長二州を支配していた。


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後の毛利氏も同族で相撲の元祖である野見宿禰の子孫である。

昌泰4年(901年)当時、土師信貞が周防国司であったと言うが、国司で無くても土師氏は周防国と長門国も実質、支配していたようで土師神社(現在、美祢市美東町)が長門国総鎮守として存在した。

美祢郡美東町大字大田4125番地
祭神 埴安彦命
配祀神 宗像三神

当社創建の年月は不詳という。当社は長門国の総鎮守と云い伝う。昔は帥(そつ)の嶺に鎮座し、其の処を高天原と称した。江戸時代の寛文3年(1663)、宮ノ原に移転する。(帥の嶺は下関市の梅ケ峠にあった。)


後の延喜4年(904年)に国司土師信貞が防府天満宮を創建している。


また、同時期に菅原氏についても名前が出ており、菅原氏と長門国、周防国の密接な関係がうかがわれる。例えば、昌泰4年(901年)時点は不明であるが、長門国司に菅原宗岳が仁和4年(888年)から就任している。また菅原景鍳(従五位上)が延喜8年(908年)まで周防守、鋳銭長官を勤めている。後年のことではあるが、文暦元年(1234年)2月16日に北野天満宮が火災に遭い、再建のため菅原(高辻)為長が長門国を賜わっている。息子の五條高長も仁治3年(1242年)10月3日から長門守に就任している。

大田の土師神社近くに、明治維新で有名な金麗社、元天満宮、美祢郡美東大字大田5912番地もある。


参考



土師氏がお護りする応神天皇の故郷が長門国の長府の忌宮神社、即ち豊浦宮である。

最古の天満宮である防府天満宮は土師氏の氏神であり、天神山麓に食い込む境内を持ち、土師は実は秦氏であることを物語っている。道明寺天満宮は元は土師寺であるため平地に鎮座している。