亀山八幡宮下の堂崎の渡し(現在の唐戸)は海の関所だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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亀山八幡宮下の堂崎の渡し(中央右)

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亀山八幡宮と堂崎の渡し(現在の下関市唐戸)は遅くとも平安時代の9世紀中頃から関門海峡の関所機能が与えられたようだ。


参考

① 亀山八幡宮(参考)

享保年間の『防長社寺由来』によれば、貞観元年(859年)、行教が宇佐から石清水八幡宮を勧請する途中、当時は島だった亀山に碇泊した。そのとき、「この山は清浄な地であるので、しばらく祀ってから先へ進んでほしい」と神託があったため、亀山に行宮が設けられた。

この行宮が当社の起源であるという。923年、西門鎮護の機能が筥崎宮から移され、関門海峡で二社体制の西門鎮護となった。

室町時代に明と貿易が始まると、遣明船は太刀を奉納し航海安全を祈願しました。戦国時代、国内はもとより防長二州も疲弊し神社も荒廃していましたが、守護大内義興は永正3年(1506)に朝鮮国国主に当宮修復の寄進を要請し、社殿・楼門等が修築された。幕末、夷狄打ち払いの砲台が設置された。


② 堂崎の渡し場と船番所(参考)

堂崎の渡し場と呼ばれていた公式の船着場がこの地にあって、江戸時代には旅人の往来手形を改める津口の船番所も置かれていました。


③ 坂本龍馬(参考)

・龍馬は慶応2年(1866)6月14日、長州藩の軍艦乙丑丸いっちゅうまる(薩摩藩名義で買ったユニオン号・櫻島丸)で下関に入った。その日龍馬は堂崎の渡しから上陸し、船宿伊勢屋小四郎宅(亀山八幡宮下)で高杉晋作と会見したと伝えられる。

この際晋作から支援を依頼され、小倉戦争に参加することとなった。晋作は急潮の関門海峡で戦うためには、操船技術にけた亀山社中が乙丑いっちゅう丸で参戦してくれるのが有利と考えたのであろう。


・「下関に伝わる龍馬伝説(要約)」。月日など、史実とは異なる点がある。

慶応元年(1865)閏5月1日、薩長同盟周旋のため龍馬が下関に来た際、堂崎の渡しから上陸した。津口番所での人別検査を無事通過して、外浜とばま町の伊勢屋小四郎方に泊った。龍馬は、よれよれのあわせに、蓬頭垢面ほうとうこうめん襟垢えりあかでピカピカ光って乞食のようだった。伊勢屋の主人は怪しみ、宿替えを申し入れたので、龍馬は安徳天皇陵の下にあった伊倉屋という安宿に移った。

その話を聞いた大年寄伊藤助太夫が調べてみると、龍馬は顔一面に雀斑そばかすがあり、将来偉人となる人相と見たので、その日から伊藤家へ引き取ったという。


・1865年(慶応元)閏5月、竜馬は現在の北九州市八幡西区の黒崎から船で海峡を渡り、ここ堂崎の渡しに上陸し、下関に足を踏み入れました(参考)。


④ フランシスコ・ザビエル(参考)

日本宣教を志し、1549年鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエル。九州各地を経て、1550年秋、本州に渡ります。


⑤ 関門の渡し賃(参考)

文明19年(1487)西国の大名である大内氏は豊前、筑前、筑後など現在の福岡県のほぼ全域を支配していました。この頃、門司や赤間ヶ関(下関)は明との勘合貿易船の発着所となっており、大内氏はこの貿易を独占して行うようになりました(
参考)

関門海峡を往来する人や荷物も頻繁になり、やがて不当な船賃を取り立てる者などが現れ、大内氏の元へ頻繁に苦情が申し入れられました。

当時の領主である大内政弘は「大内家壁書」をつくり、その中で船賃を次のように定めました。 

一、関(赤間関)と小倉の間 3文
一、関と赤坂の間 2文
一、関と門司の間 1文
一、よろいからびつ 15文
一、こし一丁 15文
一、馬一匹 15文
一、犬一匹 10文
文明19年(1487)4月20日


右、渡り賃のこと、前より定をかるといえども舟方ども御法を破り、渡る人を悩ますことあらば、その舟方を関・小倉の代官所の所へ御引き渡し、代官の所より山口へ注進されたし。

次いで、江戸時代の下関の商人、伊勢屋小四郎(今の壇ノ浦町、阿弥陀寺町あたり、参考)の看板には、次のように記されています。

下関から
小倉まで貸切 1貫3百文
大里まで貸切 1貫
小倉まで乗り合わせ 60文
大里まで乗り合わせ 60文
安永6年(1777)

もう少し時代が過ぎて、文化10年(1813)野田成亮の『日本九峰修行日記』には

大里から下関 一人分80文

さらに安政6年(1859)河井継之助の『塵壷』では、阿弥陀寺より100文、内裏(大里)にて20文(払う)と書かれています。

こうして、続けて見ると時代と共に少しずつ渡し賃が値上がりしている事が、わかります。


⑥ 古代から伊崎の漁師が水先案内と通過船の操船を引き受けていた(参考)