関門海峡を守る三つの八幡宮 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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甲宗八幡宮
こうそうはちまんぐう
福岡県北九州市門司区旧門司1丁目7-18

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祭神:  応神天皇、神功皇后、宗像三女神
由緒:
清和天皇・貞観元年(859年)、大和国大安寺の僧行教宇佐神宮に参拝して「桓武天皇が都を平安京に遷されてから50年以上も経過しましたが、いまだに王城を鎮護する神が有りません。願わくば神慮が私にくだって、守護神を教えてくださいますように。」と祈願したところ、『われが都近くに移座して国家を鎮護しよう』と神勅があったので、貞観2年(860年)に清和天皇は太宰大弐の清原真人岑成(まひとみねなり)を勅使として派遣しました。勅使の旨を受けた僧行教は、宇佐神宮の御分霊を山城国に遷座する(石清水八幡宮の創建)途中、門司ヶ関の霊峰・筆立山(ふでたてやま)の山麓に駐留しました。すると筆立山の上空に瑞雲がたなびき、不思議にも八流(やながれ)の幡が天降(あもり)して光り、日月のように行教(ぎょうきょう)の袈裟を照らしました。行教は「大神の出現、疑うべからず」と上申して、この地に宇佐神宮の御分霊を祀り、神功皇后のご着用の御甲(かぶと)を御神体として当神社を創建しました。御甲を御神体としてまつることから甲宗と称します。祭主(初代宮司)は宇佐神宮の初代宮司・大神比義(おおがのひぎ)を始祖とする大神義勝であり、以来同家が宮司職を務めております。

過去、源氏、足利氏が戦勝祈願、大内氏、毛利元就、細川忠興、小笠原忠真、毛利元徳、出光佐三の庇護で繁栄したが、大友と毛利の争いや小倉戦争で火を受け、坂本龍馬に砲撃を受け、終戦間際に空襲を受けたりした。

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本州への渡し口にあたる門司関があった。

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近くの早鞆瀬戸和布刈神社がある。

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同時期に同じ由緒を持つ神社として、関門海峡を挟んで、目と鼻の先に亀山八幡宮と日本西門鎮守八幡宮が下関側にある。


かめやまはちまんぐう
山口県下関市中之町1-1

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祭神:  応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
由緒:
享保年間の『防長社寺由来』によれば、貞観元年(859年)、行教が宇佐から石清水八幡宮を勧請する途中、当時は島だった亀山に碇泊した。そのとき、「この山は清浄な地であるので、しばらく祀ってから先へ進んでほしい」と神託があったため、亀山に行宮が設けられた。この行宮が当社の起源であるという。923年、西門鎮護の機能が筥崎宮から移され、関門海峡で二社体制の西門鎮護となった。

室町時代に明と貿易が始まると、遣明船は太刀を奉納し航海安全を祈願しました。戦国時代、国内はもとより防長二州も疲弊し神社も荒廃していましたが、守護大内義興は永正3年(1506)に朝鮮国国主に当宮修復の寄進を要請し、社殿・楼門等が修築された。幕末、夷狄打ち払いの砲台が設置された。


日本西門鎮守八幡宮
にっぽんせいもんちんじゅはちまんぐう
山口県下関市阿弥陀寺町4-1

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祭神:  応神天皇、仲哀天皇、仁徳天皇
         相殿に玉依姫、神功皇后を祀る
由緒:
貞観元年(859)大安寺の行教和尚が、豊前の宇佐八幡宮から京都の石清水に分霊を勧請する途中、日本の西門の守り神として阿弥陀寺とともに建てたと伝えられています。

浄土宗 聖寿山 阿弥陀寺(八幡宮の神宮寺、明治から赤間神宮)
春帆楼の敷地にあった
由緒
貞観元年(859) 大安寺の行教和尚が創始者となって、浄土宗の阿弥陀寺(創建時は浄土宗ではなく真言宗であろう)を開いたといわれています。同時に、鎮守社として豊前の宇佐八幡宮から神霊を勧請して、鎮守八幡宮も建てられた。その後、平家一門が都から落ち延びる際に京都の伏見稲荷大社勧請して乗船した。壇之浦についてから紅石山にこの紅石稲荷神社を創建した。寿永4年(1185)の源平壇之浦合戦で敗れ、安徳天皇は亡くなられた。建久2年(1191) 12月14日後鳥羽天皇は、長門国に対して安徳天皇の陵墓に御影堂を建てることを命じ、建礼門院の乳母の娘 少将局が髪を下ろして命阿尼となり、安徳帝の菩提を弔いました。都であった福原宮から安徳帝の十一面観音像、建礼門院の持仏の弥陀三尊、清盛の持仏の弥陀三尊、重盛の持仏の釈迦像などを奉還して本尊として祀った(この時から浄土宗になった)と伝えられいる。江戸時代から真言宗に戻り、明治になって阿弥陀寺と御影堂が赤間神宮となった。

赤間神宮、水天門

後の源平合戦では、当八幡宮と甲宗八幡宮共に源氏勝利の印である白旗を揚げたと云う。後ほど安徳帝を阿弥陀寺の御影堂に祀った。

弘安の役(2度目の元寇)の際に、山陰沿岸や関門海峡までフビライ軍の船が来襲してきたが、この鎮守八幡宮の神殿の扉が自ずから開いて、光る玉が海中に飛んでいったかと思うと、たちまち大風になって、敵船をことごとく吹き破った、と記されているそうです。


参考

同時に北浦海岸の防衛の為に生野神社と大坪八幡宮が創建された。

当時、中央の京の都の防衛だけでなく、日本全体の防衛も八幡大神(八幡菩薩)を信仰する氏族の支援が必要であったのであろう。

三つの神社が創建されたころ、日本で唯一の防人の軍団である豊浦団が長府に存在し、壇之浦を越えて赤間関まで進駐した。外国の脅威が増していたのであろう。本土防衛の最西端の最重要拠点であった。本土防衛に関し、すでに長門城が築かれている。

神功皇后時代、東門鎮護は豊北町の東門鎮護、住吉八幡宮、西門鎮護は筥崎宮であった。筥崎宮は延喜21年(921)、醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の宸筆を下賜され、延長元年(923)筑前大分宮(穂波宮)より八幡大神を遷座し、西門鎮護の役割は亀山八幡宮に移管された。



八幡宮創建から42年後の昌泰4年(901)、太宰府に配流される途中に菅原道真公が長府を訪れ、悲しい思いを残しています。門司側の和布刈神社が隼人明神と呼ばれたこともあり、また、かつて熊襲と塵輪結託して豊浦宮を攻めた過去の記憶から、関門海峡を渡ることは異郷の地に赴く思いであったのであろう。

三神社とも第二次大戦の空襲の被害を受けているが、益々繁栄をしている。

旧阿弥陀寺に安置されていた仏様の一体、木造釈迦如来立像が宗像大社の神宝館の3階に大切に展示されている。