外人接待所、西の本陣佐甲家について | 日本の歴史と日本人のルーツ

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オランダ商館長入湊図、中央下が本陣佐甲家

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本陣佐甲家跡地、南部町20-22

外人接待所に指定され、オランダ商館のスチューレル館長やシーボルト医師が宿泊した。寿公園から南方向、道路を挟んで高層マンションの手前の駐車場あたり(参考)。


参考

① 
佐甲藤太郎(さこう とうたろう、参考)

年貢米の陸揚地である赤間関(現在 下関)の有力商人で運送、倉庫、委託販売業を兼ねる問丸役として伊藤氏とともに赤間関の町衆を束ねた。

 天文23年(1554年)以前に瀬戸内海から筑前海域に進出した海賊船6隻に対し、赤間関の地下人とともに警固船を準備し、戻ってくる海賊と交戦して一人を討ち取った。その勲功について守護大名大内氏の重臣といて長門守護代の内藤興盛から褒賞されている。

永禄9年(1566年)から元亀元年(1570年)の間に、赤間関問丸であった先代の佐甲三郎左衛門尉が病死した。赤川元忠や堀立直正に裁判をもって佐甲氏の跡目を安堵することが命じられている。

その後、天正2年(1574年)11月、上関で関料徴収にあたっていた村上武満が佐甲籐太郎の求めに応じて、佐甲三郎左衛門尉の手次として上関の通行許可・通行税免除を認めているので、この時期、藤太郎が三郎左衛門尉の跡目を継承して赤間関問丸に就き、瀬戸内海流通に直接関わるようになっていることが分かる。

つづいて天正13年(1585年)3月、籐太郎は瀬戸内海全域に影響力を持つ能島村上氏に働きかけ、同氏 当主の村上元吉から、「海上無異儀往返」を保障する「紋幕」も与えられている。

室町期、大型船舶を含む赤間関船が畿内に物資を運び込んでおり、戦国期には有力商人・佐甲藤太郎が海賊衆・能島村上氏から通行許可の「紋幕」を得るなど、広域にわたる内海水運の一大拠点となっていた。

関役人である問丸として大内氏や毛利氏と結ぶ、佐甲氏や伊藤氏などの上層の特権商人を指導者として構成されている。 

支配者と結んで特権を持ち、関役料を徴収する佐甲氏ら指導層と、徴収される地下人との間には対立関係も存在し、指導層に対する関役解任要求が出されることもしばしばあった。天正年間には佐甲氏、伊藤氏らの解任を求めて赤間関地下人が逃散するという事態にまで発展し、毛利氏により両氏が解任・追放され、逃散した地下人の早期帰関がはかられている。

大内氏時代は地下人の要求は事実上却下されていた。赤間関の発展にともなう地下人の実力向上から毛利氏は地下人の要求受け入れに踏み切った。またそのために指導層との矛盾も拡大したといわれる。なお、地下人の逃散は江戸初期になってもみられる。


② 佐甲家の本陣の間取

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③ 阿蘭陀宿(wikiより)

阿蘭陀宿(おらんだやど)は、江戸時代宿屋オランダ商館の Capitão(カピタン)が、江戸参府の際に滞在した宿泊所である。

下関では、他の4都市と違い、同地の大町年寄(大年寄)の伊藤家[12]と佐甲(さこう)家が交替で屋敷を宿泊施設として使用した。両家ともオランダ趣味旺盛な人物で、交代で阿蘭陀宿を務めて[13]カピタンを歓待し、訪問期間には阿弥陀寺などの寺社見物をするのが例であった。シーボルトが宿泊した佐甲家は海岸通りのすぐ近くの南部町[14]にあった[13]

両家に宿泊したカピタンたちは、「その主人は日本流の甚だ立派なる家に住す」と伝えており、「彼らは浜辺にわれらを出迎えて、その家までわれらに随伴し、われらの滞留を慰めんとて歓待」した。滞留中に見物した神社仏閣は、阿弥陀寺・極楽寺・神宮寺・八幡社・稲荷神社・教法寺・大陸寺・酉谷(ゆうこく)寺・光明寺・永福寺・東光寺・福善寺があり[13]、文政5年(1822年)カピタン・ブロムホフに随行したフィッセルも「此町は海に臨み、殊に阿弥陀寺を以て知らる」と述べている。

文政5年にブロムホフに宿を提供した伊藤杢之丞は、ファン・デン・ベルフ (Van Den Berg) というオランダ名を持ち、オランダ語は全く話せないながら、オランダ風俗をよく知り、様々なオランダの器物を買い集めて一室に収蔵していた[15]。彼のオランダ名は、以前ヘンドリック・ドゥーフがつけてくれたもので、佐甲家に宿泊したシーボルトを訪問した際、オランダ名の書かれた名刺を出して挨拶したという[13]。収集物の中には、非常に古く年代不明の物や奇異な物もあり[15]、ブロムホフ一行が持参している食器戸棚の到着が遅れた滞在初日の昼にはこれらの器物を出してきて食事の用を足した[15]。杢之丞は、機嫌の良い時はオランダの衣服を着て現れたが、その姿は彼の収集品よりも「更に奇怪」だったという[15]

杢之丞が、シーボルトを自宅に招いた際には、ヨーロッパ風の家具を置いた部屋に洋装でシーボルトを出迎えた。この衣裳はドゥーフが江戸城で将軍に謁見した際に着用していたもので、ドゥーフから譲り受けたという[13]。家族総出でオランダ風の劇を演じ、琴や舞、手品に船頭の唄など様々な余興でもてなした後、別室にシーボルトを招いて多くの収集品を披露した[13]

伊藤家には、海外の収集品の他にも、ヤン・フレデリク・フェイルケ (Jan Frederik Feilke) [16]による富士山墨絵『富嶽図(ふがくず)』も残されている。

佐甲家の甚右衛門も杢之丞と同様、カピタンスチュルレルからファン・ダーレン(van Daalen)というオランダ雅名をつけてもらい、舶来品を多く収集していた。


④ 伊藤家や佐甲家の当主は西洋を知る尽くしていた(参考)


⑤ 伊藤家は鎌倉時代初期に国司の目代として赤間関に赴任した(参考)