アーネストサトウの食べた西洋料理 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

四カ国連合艦隊との講和の応接

伊藤博文『究極のメニュー』
ぱっと見た感じは現在の懐石料理ですね!まあ、現代の料理人がサトウの感想を実体化したので仕方無いですが、あえて西洋料理といえば、フランスのコース料理に近いですね!ヨーロッパの宮廷料理はフランス料理ですから、イギリス国代表団をもてなす場合は尚更、フランスのコース料理です。19世紀に一皿づつ順次出てくるコース料理がロシアからフランスに導入されましたが、これがオランダから日本の長崎に伝わって、懐石料理に融合していた可能性があります。フランスのヌーベルキュイジンヌを100年前に実現しています。伊藤博文公が帰国する前から長崎には料理人がおり、赤間関に呼ばれたのでしょう。こんなことを赤間関の遊郭の料理人に出来るでしょうか?チョット疑問になりました。


{8E8B323F-EAFD-42EB-8780-4B34208E1291:01}

幕末に英国の通訳として活躍したアーネスト・サトウ(1843~1929)の著書『一外交官の見た明治維新』によると、元治元(1864)年に4国連合艦隊との講和会議後、攘夷戦終結から約20日後の旧暦元治元年8月27日でした。伊藤さんが、前年の英国留学経験を基に知恵を絞り、サトウを西洋風料理でもてなしたとあります。

「…最初に出し料理は丸煮の魚にて、なかなか切りにくかりしかば、予は箸をその頭へ突き刺し、匙で肉を剥がして食らいたり。醤油壷や、飯を盛り上げたる大鉢や、粗製塩を入れたる小皿など机上に並べあり。2番目がウナギの蒲焼、その次はスッポンのシチューが出しが、これはどちらもうまかりき。続いて出しはアワビの塩蒸と鶏肉の水炊。この2品は批評の限りにあらず。刃の鋭く首の抜けそうなるナイフで鶏肉を切るのゆえ甚だむつかしかりき…」

サトウは、「何はともあれ、日本において西洋風の晩餐を試みたるは、これが最初なりしならん」と珍しがったそうです。もちろん、長崎などでは古くから西洋風の食事もあったのでしょうが、素人の日本人が数少ない知識を基に、文字通り『ご馳走』したのは初めてだったのかもしれません。

上の写真は、1998年3月24日に、山口朝日放送が『5時からワイド』という番組の中で、「元祖やまぐち日本一・番外編伊藤博文の作らせた幕末の西洋料理再現」として、東亜大学・和仁教授の監修、山口市の割烹『亀石』のご主人・亀石和彦さんの調理で再現したものです。


赤間関で一番格式の高い遊郭での接待説

また、東京第一ホテル下関(赤間町6-2)、旧大坂屋(対帆楼)の跡地で経営も、創業25周年記念として、2009年8月27日に再現している。これは攘夷戦後約20日後、講和が成立したあと旧暦元治元年8月27日、アーネスト・サトウらを招いて大坂屋(対帆楼)で晩餐会をひらいたと、古川薫が大坂屋最後の当主・木村義雄さんから聞いたことを根拠にしています。


 
外人接待所、西の本陣・佐甲家による接待説

さらに、外人接待所としてオランダ商館長やシーボルトをもてなした実績がある格式の高い佐甲家本陣(南部町20-22、参考)で接待したと言う以下の説がある。

伊藤がイギリス軍艦ユーリアラス号の艦上で行われた談判に列席して、正使高杉晋作を援けて和議の成立に活躍したことはよく知られている。半端でも英語が喋れる伊藤と旧知の仲であったアーネスト・サトーの二人が話し合って根回ししたのが効いたか、三回目の正式交渉で和睦が成立した。しかし、和議成立後の馬関での処理がまた大変で、5000人の外国軍水兵たちの食糧補給と対応、300万ドルの賠償金の工面などもあった。総じて敗戦側は卑屈になるものであるが、足軽出身の伊藤も色々と頭を悩ました。友人の田北から借りていた秘蔵の太刀を英艦長にプレゼントしたり、南部町の佐甲本陣にサトーを正式の西洋料理で招いたりした。その材料代の未払い分の処理を村田蔵六(のちの大村益次郎)に頼んだお蔭で、田北の刀の代金も藩から出して貰うことができた。 

参考資料


この資料の中で、紅屋の子孫の証言であり、また南部町の料亭紅屋(紅喜)は伊藤が詰めている外人応接所の佐甲本陣の筋向いにあったとも記している。萩藩の越荷方役所も近く、また赤間町と新地町の間で萩藩の志士が往来していた。このころ伊藤は梅子さんと顔見知りになっていたはずです。