フランシスコ・ザビエルと引接寺、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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フランシスコ・ザビエルは1550年に下関(赤間関)に上陸した。そして上陸、宿泊した下関の地で直ぐに信者を集めてお説教したと考えられ、下関に1586年に教会堂が建てられたと言う。

フランシスコ・ザビエルの下関上陸の10年後に引接寺が現在地に創建された!引接寺は幕末まで朝鮮通信使の宿泊施設になっていたが、1560年の創建以前から外国の賓客を接待していた施設があったと考えられている(参考)

実は引接寺は幕末まで隠れキリシタンの寺と目されており、すなわち、遅くとも下関の教会堂が1602年の禁教令(参考)で閉鎖された以降、下関の隠れキリシタンの伝道の拠点であったと考えることが出来る。

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参考

① 引接寺(いんじょうじ、参考)、浄土宗

住所: 〒750-0004 山口県下関市中之町11-9

引接寺は、1560年(永禄3年)に現在の北九州市門司区より移創された浄土宗の寺院です。当時の建物は1945年(昭和20年)の大空襲で消失してしまい残っていませんが、有名な名工・左甚五郎の作と言われている大きな龍の彫刻がある三門は、18世紀に再建されて以降も戦災にも焼けずに残り、現在は下関市指定文化財になっています。この三門には伝説があり、江戸時代末期、引接寺の前を通りかかった人が次々襲われる事件が起きましたが、その犯人は三門の彫刻の龍であり、武士によって龍は退治されたといわれています。実際に三門を見てみると、なるほど龍の胴体はスパッと切られています。この龍を見るために引接寺を訪れる方も少なくないそうです。江戸時代には朝鮮通信使が江戸に向う途中逗留した場所でもあり、日清講和会議の清国全権李鴻章が滞在した場所でもあります。引接寺から春帆楼に通じる小道は、李鴻章が講和会議に通った道として「李鴻章道」と名付けられています。下関の隠れキリシタンとの関係があった寺という説もあり、下関の著名人(伊藤助太夫、入江和作)のお墓もあるそうです。


② フランシスコザビエルの伝道(参考)

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③ フランシスコザビエルは下関に上陸した

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下関市唐戸の亀山八幡宮近くの上陸記念碑
住所:山口県下関市唐戸町6番(カモンワーフ東側 駐車場内)

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1586年に下関に教会堂が建てられた

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フランシスコザビエル下関上陸図(参考)


④ 豪商、入江和作は隠れキリシタンであった(参考)


⑤ キリシタン灯籠を探して見た(参考)


注: 

① ある郷土史家のお話では、安岡村に引接寺の門徒が多く、決定的な証拠は無いが彼らは実は隠れキリシタンであり、安岡の地名の読み「やそおか」の「ヤソ」はキリスト教の「耶蘇」が由来であると指摘していた!

安岡の地元のお寺の檀家では無く、離れた引接寺の檀家である住民が少なからず存在することは確かである。


② 他地域にも同名の引接寺があり、やはり隠れキリシタンゆかりの寺であった。引接寺(インジョウジ)と言う寺名に深い意味が隠れている可能性がありそうである。

・引接寺(参考)、天台真盛宗

住所:津市木造町1402

引接寺にはキリシタン燈籠と呼ばれる燈籠がある。これは隠れキリシタンが弾圧をまぬがれようと隠れて祀ったものといわれている。