平安時代末期の外国使節接待の為の臨海館は赤間関にあったことは考古学的検討で推定されているが、さらに新平家物語にも赤間関にあったと記述されている。
この臨海館があった当時、すでに末廣稲荷神社、日本西門鎮守八幡宮、阿弥陀寺、亀山神社は存在した。すなわち、これらの建物以外の地で海岸沿いで高潮を避けられる高台を考えると、現在の引接寺、旧稲荷町あたりが考えられる。
空襲で焼失する前の引接寺
この亀山神社が臨門駅である(参考)。
すなわち引接寺が赤間関上陸後の最初の場所(接待施設の臨海館)と考えられる。
参考
① 新平家物語14 壇之浦の巻(参考)
② 新平家物語10(参考)
⑥ 現在の下関市唐戸(赤間関)
⑦ 朝鮮通信使の下関での客館(参考)
50人程度の人員であった室町時代は阿弥陀寺(現在の赤間神宮)、300~500人規模となった江戸時代は阿弥陀寺と引接寺が充てられました。客館は使行のたびに修築され、豪華な調度品が華やかさを演出しました。阿弥陀寺には三使及び上官、引接寺には中官と下官が宿泊し、通信使の案内と警固のために随行した対馬藩主は馴染みの本陣伊藤家、対馬藩士は下関の商家数十件に分宿しました。
⑧ 引接寺(いんじょうじ)について(参考)
引接寺は永禄3年(1560)に一徳和尚が豊前国の黒田村より移創された寺院です。慶長3年(1598)には小早川隆景(毛利元就の三男)の霊を弔うため、息子の秀秋が現在の地に建立しました。以降、朝鮮使節使等、度々使節の宿所となっていることから、国際的にも認知度の高い寺院であり、歴史的にはもっと古いものがあったのではないかとも言われています。
明治28年(1895)日清講和条約(いわゆる下関条約)の際、清国全権大使李鴻章一行の宿所となりました。本堂は昭和20年の大空襲で焼失しますが、三門は辛うじて残りました。その後平成8年9月、日清講和条約締結100周年を記念して本堂が建立されました。
大空襲による焼失のため、わからなくなってしまったことがたくさんありますが、多くの賓客がここを宿所とされてきたことや、三門の龍の彫刻などを見て、その由緒を感じとることができます。
引接寺は、浄土宗寺院で当初は豊前国黒田村(福岡県京都郡みやこ町勝山黒田)にあったとつたわるが、詳細は不明です。永禄三年(1560年)、この地の亀山八幡の麓に建立され、山号を関亀山と号す。
慶長三年(一五九八年)小早川隆景の菩提を弔うため、藤堂佐渡守高虎が現在地に広大な堂字を建立し引接寺を移した。以後、赤間関の有力町人や長府藩の庇護を受けるとともに、萩藩によって朝鮮通信史の客館としても整備されるなど、寺勢は隆盛を極めた。
また、明治二十八年(1895年)春には、日清講和会議のために来日した李鴻章一行の宿舎となり、李鴻章狙撃事件とも相まって、寺名は国際的にも名高い。昭和二十年(1945年)六月二十九日、引接寺の堂字の大半は戦渦により焼失したが、三門はこれを免れ、往時の様子を伝えている。
この三門は、明和六年(1769年)八月に長府藩九代藩主の毛利匡満が再建したものである。また、花崗岩四半敷の基壇は、慶長期の建立時のものと推定されることから、当初の構造形式を踏襲して再建したものと考えられている。三門は屋根を本瓦葺きとし、両側に脇門を設け、柱を総円柱とした四脚門の構えであり、門の内部に二手先の組物を使い、鏡天井に龍を彫り込んだ意匠は希少である。
10 1550(天文19)年、フランシスコ・ザビエルは天皇のいる京都に向かうため九州を発ち、本州最初の地である下関に上陸しました(参考)。引接寺には下関の隠れキリシタンとの関係があった寺という説もあるが(参考)、これとの関連が伺える(参考)。
追加写真(2018.1.13)