長府藩を尊皇攘夷に向かわせた男、鳥山重信 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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鳥山重信は天保十二年、安岡村冨任に生まれる。冨任の田原俊貞の長男として生まれ、幼名を哲平という。長府の儒学者臼杵駿平に漢籍を学び、文久元年萩明倫館に入る。臼杵駿平の養子になり臼杵哲平と称した。養父駿平が京都で倒れ、四国連合艦隊との戦火を浴び、住吉神社に集まり報国隊を結成した。また吾往隊の隊長も務めた。

これより先、佐幕的傾向が強かった長府藩是を尊皇攘夷に向かわせ四国艦隊に立ち向かったが、一敗地にまみれ、再編に努力していた矢先、本藩のリーダー高杉、伊藤、井上等が開国に転じたとの風聞が伝わり、元凶が桂小五郎であり彼を倒さねばと有志が談合して、斬姦状の草案を彼が書いたと科められ角島に流された。この後、鳥山重信と改名した。

小倉戦争では報国隊大番小隊長、慶応三年には報国隊書記、軍監となる。北越戦争でも報国隊を率いた。維新後、三重県大書記から内務省県治局次長で明治二四年退官。山県内閣総辞職に殉じたと噂が伝わっている。大正元年十月二十七日、七十二歳で逝去、「古谷先生夫妻之墓」と刻まれ植松墓地に在る。

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左: 安岡浦、中央: 冨任

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安岡町冨任、冨任正町公園となりの植松墓地の鳥山家墓所

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古屋先生夫妻之墓となっている。


狩野芳崖は義理の弟(参考)。


参考

① やすおか史誌、P696、平成2年刊


② 明治維新に貢献した安岡村民(参考)


③ 長州が尊皇攘夷となった要因(参考)