これより先、佐幕的傾向が強かった長府藩是を尊皇攘夷に向かわせ四国艦隊に立ち向かったが、一敗地にまみれ、再編に努力していた矢先、本藩のリーダー高杉、伊藤、井上等が開国に転じたとの風聞が伝わり、元凶が桂小五郎であり彼を倒さねばと有志が談合して、斬姦状の草案を彼が書いたと科められ角島に流された。この後、鳥山重信と改名した。
小倉戦争では報国隊大番小隊長、慶応三年には報国隊書記、軍監となる。北越戦争でも報国隊を率いた。維新後、三重県大書記から内務省県治局次長で明治二四年退官。山県内閣総辞職に殉じたと噂が伝わっている。大正元年十月二十七日、七十二歳で逝去、「古谷先生夫妻之墓」と刻まれ植松墓地に在る。
② 明治維新に貢献した安岡村民(参考)
③ 長州が尊皇攘夷となった要因(参考)