高杉晋作がイギリスの彦島租借を拒否した話はホラ! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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高杉晋作、伊藤博文がイギリスと交渉し、彦島の租借要求をはねのけたと言う伝説がある。どおも伊藤博文のホラ話と考えた方が正しい。

当時の赤間関(下関)と彦島の地図(伊能大図)を見ると、港としては本土に集中し、彦島は漁村が点在する程度であった。すなわち、英国の最新鋭軍艦をすぐさま停泊させることは難しい。租借するなら本土の方がまだましである。

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伊能大図: 赤間関(下関)と彦島

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伊能大図: 彦島

また、関門海峡は潮流の速さだけでなく岩礁や浅瀬が多く(参考)、イギリス海軍は当時、測量して関門海峡の海図を作成して自由に航行出来たので、すぐさま軍艦を停泊出来る港が彦島周辺には無いことは分かっていたはずである。浚渫工事は明治以降のことである。

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関門海峡の水深


伊藤博文の実際の外交交渉には食事、女、贈物による接待もあった(参考)。


参考

① 英雄伝説1(参考)

イギリスのクーパー提督は、彦島の租借を持ち出したが、高杉さんは断固として「ノー」といった。これは確かな事実であって、高杉さんは事前にむこうが彦島租借を要求してくることを察知し、出してくれば断固として「ノー」といおうと、通訳の伊藤俊輔と話しあっていた。高杉晋作はその二年まえに、上海に行って西洋の租借地を見ていた。「犬と中国人入るべからず」と書かれた立て札を見て、烈火のごとく怒り、このままでは日本もいずれこうなる、絶対に日本の土地を租借させてはいけないと考えていた


② 英雄伝説2(参考)

相手の肚を見抜く力と、何十年、何百年先を見通す眼力が、生れながらにしてそなわっていた高杉ではあるが、彼はまた、何度も彦島に足を運んで農兵や住民たちとも親しく接して居り、関門の要衝としての地形的な利を心得ていたから、断固これを蹴散らした。高杉晋作が初めて彦島に足跡を印したのは文久3年(1863年)6月8日のことで、結成したばかりの奇兵隊士を引き連れ、島内各地の台場を巡視したが、その後も、8月13日には世子定広公のお伴をして、毛利登人と共に弟子待砲台などを視察している。また、都落ちの五卿が白石正一郎の案内で福浦金比羅宮に参詣したこともあり、勅使、正親町公董や、長府藩主らも各台場を激励して回っている。恐らく高杉は先導をつとめたであろう。慶応2年(1866年)7月6日にも高杉は福田侠平らを連れて来島しているが、奇兵隊結成に際し、隊の軍律を『盗みを為す者は死し、法を犯す者は罰す』という僅かニケ条のみの簡単明瞭さと、『彦島を租借』と一言だけ聞いて烈火の如く怒りこれを断った明敏さには、やはり、共通した何かが感じられて胸が熱くなる。彦島の古老が今でも『高杉さん』と呼ぶのは限りない感謝の気持が込められているからだろう。
(「彦島あれこれ」より)



③ アーネスト・サトウの「一外交官が見た明治維新」には、彦島の租借に関しては 一言の記述がされてません(参考)


④ ヤフー知恵袋での彦島租借問題へのQA

質問:

高杉晋作、彦島の租借について1863年の4カ国連合との和議交渉で、高杉は「彦島の期限付租借」を受け入れなかったそうですが、受け入れていたらその後、どうなったのですか?

回答:

1864年7月24日(陰暦)、4カ国連合軍は下関遠征に関する覚書を作成しているが、その2項に賠償金を受け取るまでの間、海峡沿岸地域を保障占領するという項目がある。期限のある保障占領で租借ではない。

そもそもこの話は、『伊藤博文伝』での伊藤の約45年後の回想ででてくる話であり、イギリスの外交記録やサトウの日記、回想録には一言も登場しない。

実は、4カ国連合軍の指揮者イギリスのキューパー提督は、あたえられた兵力では占領は不可能として、この2項を実行しないと決めていた。しかし、交渉の中の取引材料としてそのようなこと持ち出していたのかも知れない、だからすぐにそれを引っ込めたのであろう。高杉が拒否したかどうかは不明だが、彼は賠償金の支払いは幕府のすることだと一番強硬な意見をいっているから、彼が反対したのかも知れない。伊藤とすれば、自分たちは外国のいいなりになっただけではないと言いたくて話を大きくしたのではなかろうか。

以上、萩原延寿著、『遠い崖 アーネスト・日記抄 2巻 薩英戦争』を参考に書きました。


⑤ 四国連合艦隊の司令官は初めから大袈裟な戦争や講和交渉は考えていなかった(参考)