幕末の食、女、プレゼントの接待は外交交渉の一つであった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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高杉晋作が四国連合艦隊の代表、イギリスのクーパー提督と交渉して日本を救ったと多くの人が説明している。これは正しいと思う。

さらに、伊藤博文と通訳アーネスト・サトウと共同しての或る交渉、すなわち食事、遊郭への招待、プレゼントと言う接待が、言葉に不自由な日英の外交交渉を円滑にしたと考えられる。これは当時の外交交渉のやり方と思われる。

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本陣佐甲家や大坂屋での食事の接待

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大坂屋での上臈の接待

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英艦艦長への太刀のプレゼント


参考

①  高杉晋作: 1864年 連合国と講和談判(参考)

1864年8月、長州藩の攻撃によって大打撃を受けていたイギリスが中心となり、 フランス、オランダ、アメリカと共に四国連合艦隊を結成、下関に再度攻撃を仕掛けました。 このときには奇兵隊も応戦しましたが、近代兵器の威力にはかなわず、敗戦が濃厚となりました。 そして長州藩は戦いをやめ、講和の道を選ぶこととなりました。 野山獄を出た後、自宅で謹慎中だった高杉晋作を呼び出し、講和の全権を任せることにしました。

連合軍との話し合いの場に立った高杉晋作は、悪魔のように傲然として交渉にのぞみました。 欧米側の要求は、「賠償金300万ドルの支払い」と、「長州藩の領地である彦島を借してくれ」とのことでした。 晋作はこれをきっぱりと拒否しながらも、攘夷を捨てることはあっさりと約束しました。 こうして、何度かの話し合いで、講和談判をまとめあげました。 これにより、長州藩は一つの危機を脱出することができました。

この講和談判をきっかけに、長州藩は尊王攘夷から尊王討幕に転換しました。


② 馬関戦争の講和談判での高杉晋作の活躍(参考)

長州藩は、四国連合艦隊との戦争でさんざん負けた。関門海峡に面した前田一帯の家は焼かれ、砲台はつぶされ、大砲は持って行かれた。この難局にあたって、毛利公は戦争の終結にあたれるのは高杉さんしかいないと判断し、当時脱藩の罪で野山獄につながれていた高杉さんを呼び出して、その任務を与えた。高杉晋作は宍戸刑馬という家老になlって、紋付き袴の正装で、毅然とした態度で講和にむかい、断固として日本を守った。

イギリスのクーパー提督は、彦島の租借を持ち出したが、高杉さんは断固として「ノー」といった。これは確かな事実であって、高杉さんは事前にむこうが彦島租借を要求してくることを察知し、出してくれば断固として「ノー」といおうと、通訳の伊藤俊輔と話しあっていた。

高杉晋作はその二年まえに、上海に行って西洋の租借地を見ていた。「犬と中国人入るべからず」と書かれた立て札を見て、烈火のごとく怒り、このままでは日本もいずれこうなる、絶対に日本の土地を租借させてはいけないと考えていた。「高杉しかいない」という判断はまったく正しかったと思う。高杉さん以外のものであれば、彦島をイギリスに貸していただろう。彦島がそのとき香港みたいになっていたら、今日にいたる日本の近代化はなかった。

ペリーが来航して、明治維新になったというのはまったく違う。幕府はペリーが来たことで、ぺこぺこして鎖国を解いて下田を開港してしまった。松陰先生や高杉さんは、これと逆の道を行かれたのである。


③ アーネスト・サトウを西洋料理で接待(参考)

遊郭であった大坂屋での接待と外人接待所であった本陣佐甲家で接待した二つの説がある。後者の説では英艦艦長に太刀のプレゼントをした話もあった。


④ イギリスの彦島の租借要求は無かった(参考)