武士道のルーツは春秋戦国時代の中国大陸 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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切腹と言う日本独特の武士道の価値観について、中国が「起源は古代中国にある」と主張した。

中国の切腹があった時代は春秋戦国時代、日本の縄文時代から弥生時代初期に対応し、中国大陸は戦乱の最中にあった。この時代は多くの民が中国大陸から東は日本へ、西はヨーロッパへ難民として溢れ出ていた。日本に逃れた難民が実は渡来系弥生人と呼ばれた人達であった。

すなわち、中国の春秋戦国時代の切腹を行なった人々の子孫が丸ごと中国大陸を離れて日本に渡来して定着し、後世に武士となったと考えれば、辻褄は合う。
 
遣唐使が中国の故事を日本に伝えたと考えると、中国大陸に切腹の習慣が少しも残れなかったこと、日本では遣唐使の役目をになった公家より、むしろ在野の武士が切腹の習慣を受け入れたことへの説明が難しい。

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武士の切腹(1670年、オランダ東インド会社遣日使節記、参考)


参考

① 日本の切腹、起源は中国にあり

SP.LOGSOKU.COM(参考)
sp.recordchina.co.jp(参考)

2015年9月17日、日本の武士道精神を代表する「切腹」。日本独特の価値観のように思えるが、その起源は中国にあるとの仮説がある。中国のニュースサイト・今日頭条が伝えた。 

記事によると、切腹の起源は中国の春秋戦国時代(BC770~BC221年)にあるという。

「荘子(外篇)」には、周の霊王・尊敬王付きの政治家だった萇弘(ちょうこう)が、謀略にはまって無実の罪で古蜀へ流された際、自身の潔白を証明するために腹を切って果てたとの記述がある。 同じく戦国時代の聶政(じょうせい)も、恩人を失脚させた韓の大臣に敵討ちを試み、最後に切腹して果てたと伝えられる。 

このような故事が遣唐使らによって日本に伝わり、土着の「怨霊退散」などの観念と結びついたのではないか ―記事ではこのような仮説を立てている。 

古代の日本では、恨みを抱えたまま死ぬとその恨みは人の腹部にとどまるとされており、 腹部を切り開くことによってそれを解放するという考えが生まれた。 

日本語に「腹を決める」「腹が据わる」などの表現が多いことからもわかる通り、 日本人は腹部をたいへんに重要視している。そこは魂や精神の居場所と考えられており、 自身の潔白を証明するために腹を切り開いてその中身を見せるといった発想が生まれたようだ。 

中国ではこのような自決の方法はすたれていったが、日本ではのちのちまで残っていったのである。 (翻訳・編集/愛玉)


② 萇弘 ちょうこう

春秋時代周王の大夫。萇叔とも。敬王もしくは霊王に仕える。神異を致すほか、孔子音楽を教授した。

周国は黄河の支流渭水流域にあった邑の一つで、はじめの支配を受けていた。文王の時に宰相太公望(斉の始祖)などの補佐もあって有力となり、前1050年頃、文王の子の武王が殷の紂王を牧野(ボクヤ)の戦いで破り、華北一帯を支配した。都は渭水流域の鎬京(こうけい)に置いたが、殷を滅ぼして中原を支配するようになってからは、中原統治の便を考慮して、河南省の洛陽(かつての洛邑、後の秦の都)を副都とした。

呉国周国の祖、古公亶父の長子の太伯(泰伯)が、次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国である。国も後の呉国も秦の始皇帝が中国を統一までに滅びた。日本列島に渡来した稲作弥生人の一派に揚子江河口あたりから来た呉系弥生人がいる(参考)日本の武士の文化は、この呉の太伯の末裔からである(参考)。


③ 聶政 じょうせい

春秋戦国時代斉国の食肉加工業者で、義侠心と食肉の解体に定評のある一騎当千の刺客。

斉国は秦の始皇帝が中国を統一する直前に滅びた国で、この国の威王は大学のようなものを作り、諸子百家に学問の場を設けた。


④ 現在の中国の漢民族の文化は、始皇帝の秦が滅亡して後、漢を建国した時からである(参考)