吉野ヶ里へ渡来した呉系弥生人がO2bのY-DNAをもっていた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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長江の下流域の南、すなわち江南から北九州の吉野ヶ里に渡来した呉系稲作弥生人は、魏略に「倭人は呉の太白の子孫」と書かれている。彼らが男性遺伝子Y-DNA「O2b」を有していた。

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呉越同舟


参考

弥生水田稲作農耕遺伝子Y-DNA「O2b」,「O2b1」(引用)

rev.1.弥生文化は多様だったのだろうか?2014年8月25日朝日新聞

水田稲作農耕文化を日本列島
に持ち込んだのは、長江下流で水田稲作技術を興しながらも黄河系Y-DNA「O3」との中原での勢力争いに負けて、拡張する「O3」に長江流域から追い出されたY-DNA「O2a」(Y-DNA「O1a」も含む)から分化したY-DNA「O2b」である。

このY-DNA「O2a」は越民と思われ長江下流域から南北に逃げ、東南アジアに逃げた集団は広範囲に拡がりインド亜大陸に深く入り込み水田稲作農耕をもたらし、インドアーリアン集団やドラヴィダ集団の中でオーストロアジア語族として今日まで生き残っている。

その後Y-DNA「O2a」集団は特に越民として現代でも華南やヴェトナムなど東南アジアに多く分布している。

一方北へ逃げた集団は現在の満州付近まで北上したようです。恐らく長江下流域に居住していた頃から越に対応する呉として分化しており呉民集団を形成していたのではないかと考えられます。この方が呉越が激しく対立していた理由が理解し易いです、、、