神代文字の豊国文字そのものを直接見ていないが、
・豊国文字(古体)はエジプトの象形文字に似ている
・豊国文字(新体)はヘブライ文字に似ている
・豊国文字(新体)はカタカナの起原
・ヘブライ文字の一部がひらかなの起原
と報告されている。
豊国文字は古史古伝のウエツフミを記述する神代文字で(参考)、海人族安曇氏が使用した。漢字は秦の始皇帝が書体を統一した文字であり、宮下文書を徐福が書いたように、漢語と万葉仮名を使用したことを明らかにしている(参考)。
漢民族が幅を効かせる前、東アジアに広がる同じ原日本語を喋る人々(秦の始皇帝や秦氏の先祖、縄文人、海人族安曇氏など)は自由に交流し、さらに西域のエジプト(ヒエログリフ)、ユダヤ(ヘブライ文字)などと交流したと考えられる(参考)。漢という漢民族最初の国が出来るまで、容易に西域と交流出来たのである。
漢字で書かれた記紀が出来る以前の神代、日本語を記述するために神代文字を考案したが、色々な神代文字が出来てしまった。豊国文字を考案した海人族安曇氏は国際的に活躍していたため、はじめは先進文化を持ったエジプトのヒエログリフ(神聖文字)を参考にしたのかも知れない。ちなみに、ヒエログリフは表意文字と表音文字の組み合わせで、古代エジプトの文書は現在の漢字仮名交じり文と同じであった(参考)。
しかし、余りに複雑なヒエログリフの使用は諦め、お隣のユダヤのヘブライ文字を参考にし、文化も一部導入したのだろう。これが、現在指摘されている日ユ同祖論につながると空想する。山伏の山岳信仰の場が四国霊場から熊野霊場と海人族安曇氏の水銀鉱山の鉱脈に一致するが(参考)、山伏の姿がユダヤの僧侶に似ているとの指摘がある。但し、ユダヤのヘブライ文字は表音文字であり、東アジアでは漢民族とか他民族とも筆談できる表意文字の使用は重要となる。
すなわち、漢字の使用は不可欠であった。漢民族の言葉、漢語は表意文字としての漢字だけで記述出来るが、日本語は不幸なことに漢字仮名交じり文とか漢語と万葉仮名の使用とか複雑な言語であった。徐福が書いた宮下文書は漢語と万葉仮名の形式であるが、これが秦の始皇帝が定めた漢字の書体の統一の成果であった(参考)。
「記紀万葉」は漢語と万葉仮名で記述され、カタカナや平仮名は無いのは、記述した学者(原日本語の5母音では無く、8母音を弁別出来る百済人か?)が海人族安曇氏の豊国文字を知らなかったと言うより、むしろ政治的に使用を禁じたのであろう。
漢字で書かれた記紀を唯一の正史とする為、豊国文字の他、神代文字の存在を否定したと考えられる。
時代が下って行くと、カタカナや平仮名の使用の有用性が認識され、解禁されたと考えられる。
参考
① 豊国文字(参考)
著者注:
まだ漢民族が幅を効かせる前、東アジアに広がる同じ原日本語を喋る秦の先祖などと交流し、さらに西域のエジプト、ユダヤなどと交流したと考えられる。漢と言う漢民族最初の国が出来るまで、容易に西域と交流出来たのである。ちなみに、バイカル湖の近くに弓月、ナラ、ヤマトの地名が今でもある(参考)。
③ カタカナの起源の豊国文字新字体(参考)
④ 中国大陸の7000年前の文字が豊国文字(古体)に似ている(参考)
仏教文化の里として全国的に知られている大分県国東半島。 この山中にて一つの歴史的な?発見があった。 その発見とは漢字以前の文字、いわゆる神代文字が彫られた巨石の存在が報告されたのである。 報告した地元の住民である溝部安司さん(70)の話では、60年前の子供の頃、 山で遊んでいたときにこの巨石の文字に気がついた。最初は岩にミミズが這っているのかと思ったが、 なぞってみるとそれは岩に刻まれた奇妙な記号であったという。 後年、山歩きがてらにその岩を探してみると、やはりその頃の記憶の通りその岩は存在していたのだ。
場所は大分県国東郡国東町の某里山の山中。 雑木がうっそうとおい茂る細い山道を登ること30分ほどでその巨石に出会えた。 周囲約3・5メートル、高さ約1・5メートルの北面に刻まれた奇妙な文字がいきなり目に飛び込んできた。文字数は15文字。神代文字で「トミアキタラシナカオキテンノウ」と読むという。
南面には35文字。神代文字である神宮文字と阿比留文字の組み合わせで、
そ こをやき
よ きちほれ
し もとく
ひわのかみのりよ
し ふきあえす
ね つきよだい
てむだ
よ きちほれ
し もとく
ひわのかみのりよ
し ふきあえす
ね つきよだい
てむだ
『この場所を焼き、大地を耕せ。霜害に遭わぬよう太陽神を祀れ。これは不合25代天皇の言葉である』という訳になるらしい。つまり焼き畑農業のすすめを記したものらしいのだ。 大分県には『上つ記』(大分県立図書館蔵)という神代文字で書かれた古文書が存在している。『上つ記』というのは、天保2年(1831年)、豊後国大分郡大分町に住む国学者である幸松葉枝尺(さきまつはえさか)により、旧家から発見された古文書で、全文記号のような奇妙な文字、いわゆる「神代文字」というもので綴られていた。時代は鎌倉、編纂者は豊後大友家初代能直となっている。「神代文字」で書かれた古文書の「新治の記」、「高千穂の大宮司の伝書」、「日向国主元雄の伝書」を基本に各地の古文書を総合したものである。「山人族」の研究で著名な三角寛博士の研究によると、『上つ記』の神代文字は「豊国文字」といわれるもので、古来よりサンカと呼ばれる独特の社会を形成し山々を渡り歩く民、山人族のあいだで用いられていたものであるということが判明した。また、さらに驚くべきことに、ウエツフミの編纂者である大友能直が「豊国文字」でかかれた古文書を奪うべく1600人もの山人族を虐殺したという言い伝えを得ることもできたのだ。つまり、元々は山人族の伝承であるということなのである。この古文書に書かれている内容と巨石の文字を照らし合わせてみると、実に驚くべき一致を見た。『古事記』では、神武天皇が初代天皇ということになっているが、『上つ記』によると神武天皇以前に72代にものぼるウガヤフキアエズ朝というものが存在し、その25代になんと「富秋足中置天皇」の名があるではないか。しかし本当にその時代に彫られたものならば、今から8000年以上のものということになり、どう考えても風化していないわけがない。
しかしこの疑問は、土地の人の話を聞くに及び解決した。その人の証言によると報告者である溝部さん同様、文字が刻まれた巨石は昔から土地の者には知られてはいたのだが、50年くらい前のある日、謎の僧侶が地主の家に立ち寄り、「この近辺になにか奇妙なものはないだろうか? 見つからなければ大変な事になる」と深刻な面もちで探しに来たという。そこでこの岩のことを教えると、1週間かけて風化していた文字を彫り直し去っていったのだそうだ。確かに60年前に溝部さんが発見した当時はもっと薄かったそうである。とすると、山の民「サンカ」の掟が末裔により今もなお機能しているのだろうか。つまりこの巨石は『生きている遺跡』ともいうべきものなのではないか。言い伝えによれば、全国140数カ所に点在しているといわれる、このような巨石に刻まれたメッセージのメンテナンスを50年~100年単位で行っているグループが存在するということだ。また、かつては神武天皇以前の歴史を認めようとせず、それを破壊しようとする一派も存在するというのだから、小説のネタにもなりそうな怪しい世界がひろがる。現に、この巨石から50メートルほど下ったところに同じ大きさの巨石があり、そこには人為的にノミで削られたあとが生々しく残されているのだ。