豊臣秀吉と下関 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

秀吉の伝承をつなげば、秀吉は1592年文禄の役の頃、阿弥陀寺から亀山八幡宮・金毘羅宮・生野神社を巡る市内を周遊していた。

金毘羅宮では兵具のため大鐘類を寄進していた。

〇亀山八幡宮 神事「亀山能」

豊臣秀吉が 「文禄の役」の際、亀山八幡宮に参拝祈願した折、のちの初代 長府藩主毛利秀元がこれを歓迎、能を奉納した ことに始まります。下関市指定無形文化財。

〇普応寺「寺社由来」

藩政期の記録に、先年太閤秀吉公、朝鮮国御出軍の節、当寺之入り遊ばされ御逗留中、大鐘鳴物の類悉く鋳崩(いくづ)し、兵具に仰せ付けられ候に付、近代迄当寺鳴物無く御座候。

〇下関大坪金毘羅山縁起―昭和15年

文禄の役豊太閤海難を避けて暫時 此の地に旅営を留め 戦勝祈願を為し玉ふ 大小の梵鐘は軍用に徴収せらる 雲板の如きは陣鐘に用いられ 小金に遺留し 畑村玉泉寺汁器となり 今に存在せりと伝ふ

〇1592(天正20)恵灯書記が普応寺住職であった時

地下上申(元文4)には大坪村の「貴布祢社と荒神小社」の項に「大庫太閤様 高麗御出陣の節 御願望にて貴布荒神へ松2本宛 御植えさせたる由 右松大木となり 今これ有候事」と記している

〇生野神社と太閤松

秀吉が「文禄の役」の際、幡生八幡宮に参拝し 
松の木8本を手植えせられたというものです。石段の両側の3本宛、神殿の両側に1本宛植えられた
そのうち1本だけが残っていたが、枯死するに至ったため、大正6年2月25日、伐採を申請写真におさめ伐採したそうです。

生野神社に保存(ふるさと生野史 林 三雄より)



参考

赤矢印: 生野神社、黄矢印: 金毘羅山譜応寺、青矢印: 亀山八幡宮、緑矢印: 旧阿弥陀寺(現赤間神宮)


① 金毘羅山譜応寺(参考)

現在の金毘羅宮は神仏混淆の寺社であり、金毘羅大権現を本尊とする。曹同宗の金毘羅山譜応寺が別当寺となっている。

金毘羅宮の本殿で祭祀を務める住職


② 旧阿弥陀寺、現赤間神宮(参考)


③ 生野神社(参考)


④ 亀山八幡宮(参考)


⑤ 明石与次兵衛塔(参考)

文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は佐賀県に建造した名護屋城に陣をおき、文禄の役(第1次朝鮮出兵)での出征基地としました。朝鮮半島に攻め込んで3ヶ月経った頃、秀吉は母である大政所危篤の報を受けます。母思いの秀吉は急ぎ早船を仕立てて大阪へと向かいました。

秀吉の御座船は細川忠興が差し回したもので、船頭(船長)の名は明石与次兵衛といいました。秀吉を乗せた御座船は大阪へ向かい、途中関門海峡を通過しようとします。そこには、干潮の時は姿を現し、満潮になると海面下に隠れてしまう、あるいは、波間に見え隠れする「篠瀬」という大きな岩礁がありました。

与次兵衛は懸命に操船を試みますが、御座船は篠瀬に座礁して大破し、秀吉は海に投げ出されてしまいます。なんとか篠瀬にたどりつき、裸同然でいるところをほかの船に救助されて、柳ヶ浦の浜(大里の浜という説もあります)に上陸し、難を逃れることができましたが、その後、明石与次兵衛は事故の責任をとって切腹します。

1600年に豊前国主となった細川忠興は明石与次兵衛の死を悼み、篠瀬に慰霊碑を建立して付近を航行する船のための目印としました。いつしか篠瀬は与次兵衛ヶ瀬と呼ばれるようになりました。時は流れて江戸時代、その碑をシーボルトがスケッチしています。彼が記した「江戸参府紀行」には、「記念碑は2メートル50センチ。四角い柱で四面からなるピラミッド型の飾り屋根があり碑文はない。」と記述されています。記念碑は与次兵衛ヶ碑と呼ばれ、その後暴風雨や船の衝突事故などでたびたび倒れたりしましたが、その度に再建されています。

時代は明治に移り、旧逓信省(後の郵政省)によって碑は、昼夜灯建設のため撤去、海中に投棄されました。その後大正時代になって内務省による岩礁撤去工事の際に発見され、内務省下関土木出張所(後の運輸省第四港湾建設局)の裏庭に再建されますが、第二次世界大戦が始まると、その裏庭に防空壕を掘るために撤去され、再び庁舎前面の海中に仮置きされてしまいます。碑は、戦後有志によって引き揚げられ、北九州市門司区のめかり公園内に再建され、現在に至っています。

明治27年の海図、彦島と大里の間の海峡の中央に与次兵衛瀬(篠瀬、死の瀬)があった(参考)。

シーボルトが描いた与次兵衛ヶ碑のスケッチ

シーボルト「NIPPON」より

福岡県立図書館蔵