旧赤間関米穀取引所から旧関門商品取引所、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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旧関門商品取引所

旧赤間関米穀取引所

米取引所 今も残る伝統の力

下関が北前船の寄港地として賑わったころは、それこそ北、南の各地から産米が集まってきた。北前船の主な荷は米である。

この地に全国有数の米取引き市場ができるのもまた、きわめて自然の成行きだった。すでに江戸時代には「米糶(せり)市場」というものができていたが、明治に入って正米会所、米商会所などと名称を変え、明治二十六年、取引所法が公布されたのに伴って株式会社赤間関米穀取引所(三十五年、下関に改称)と正式に定めた。

もともと防長米の産地だけに、ここに至るまで藩政時代から米商会所として三百年の歴史をもっていたという。明治初めごろには限月決済を現米受渡に変えるという、下関方式が東京や大阪の米会所からも注目され、たちまち全国に広まった。何しろ全国一の取引所·大阪堂島取引所でさえもがこの方式を研究に下関を訪れ、ただちに取引方法を改めたというのだから、下関取引所の権威がいかようのものであったかおわかりいただけるだろう。規模そのものも堂島に次いで第二位だった。

この取引所は、北前船寄港という外部要因だけに甘んじてはいなかった。自らも取引方式を盛んに研究、ユニークな手を次々に打ったのが大きな特徴とされる。下関取引所のこうした「権威」は間もなく、今の金にしてざっと八億円余りもの金をかけた超豪華なレンガ造りの洋館として、具体的な形となったのである。建設地は東南部町。明治三十五年十月のことだった。

この三階建ての建物は昭和二十年七月の戦災にあって焼け、ドームの鉄骨と赤レンガを田中川そばにさらしていたが、それも三十八年に完全に整理されてしまった。

話が横道にそれるが、大正七年八月、下関で米の値が暴騰、緊急措置として外米が売り出されたことがある。米屋倉庫一軒が暴動にまき込まれたりしたが、何しろ一升当り十九銭だった米が五十銭以上にハネ上り、庶民の手の届かぬものとなってしまったのだから、騒動も無理もない。例の富山県での米騒動もこのとき起こっているが、当時の不破下関市長は朝鮮米組合長、小島幸助に頼み、朝鮮米五千俵を賈付け、結局1升を三十錢くらいで市民に売った。このため下関の米騒動は大事にまでは至らず、市民の不安も薄らいだという。

さて取引所のほうだが、昭和に入って戦時体制強化のなか、十四年に米の自由売買が禁止され取引所は閉鎖、解散に追い込まれた。雑穀の取引を扱う関門商品取引所は昭和二十八年設立され、翌年からは砂糖も導入、今も西日本唯一の取引所として下関に腰を据えているが、下関経済の衰えとともに四十六、七年ごろから博多への移転話も噂されるようになった。

しかし「この取引所は多くの下関の発起人の方々が熱を入れてできたもの。誘致陳情も戦前の米取引所の実績があったからこそ実現した。そりゃ現在は博多筋の取引が大半だし、博多に移ったほうがいいんでしょうが、穀物取引に歴史のある下関から離れるのは…」と関係者が語るように、米取引所時代の伝統は今なお力を持ち、下関に取引所を存続させているのである。昨年末には増改築工事も完了した。

ちなみに五十一年度の取引出来高は一兆九千七百九十五億…大変な数字となっている。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)(彦島のけしきより)


関門商品取引所のセリ

当時のセリのようすで、掲げられた指は数字を表す。〈南部町,昭和38年,提供 = 田中稔氏〉

(下関市の昭和より)(彦島のけしきより)


参考

① 福岡商品取引所の沿革(wikiより)


・1953年 「関門穀物商品取引所」を創立、設立、登記、開所(所在地:山口県下関市西之端52番地)

・1954年 「関門商品取引所」に名称変更、砂糖市場(粗糖、精糖)開設

・1955年 取引所を新築の商取会館に移転(下関市南部町10番地の1)

・1960年 ビート糖上場

・1961年 アメリカ大豆上場

・2001年 市場の移転・「福岡商品取引所」に名称変更

2006年12月1日 関西商品取引所に合併され、解散



② 赤間関米穀取引所と関門商品取引所

赤丸: 旧赤間関米穀取引所、黄丸: 旧関門商品取引所


③ 為田さんの死と関門の賑わい

市場経済研究所 鍋島 高明(先物寸言、参考)

関門商品取引所で長く常務理事を務められた為田俊明さんが他界した。80歳であった。昭和30年に山口大学経済学部を卒業、すぐ関門商取に入り、終生商品取引所の運営に従事した。為田氏の活動歴としては、同47年に東京・大阪の取引所と共同で日本初のバラ積み粗糖のCIF条件による取引を開発、また平成7、8年には韓国先物去来協議会のセミナーに招かれ、ソウルで「東アジア市場構想」について講演するなど論客として知られる。「活力ある市場づくりへの提言」など多数の論文を世に問うた。

平成16年にはライフワーク「日本の商品取引所」をまとめ、後世への遺産とした。為田さんはその本の挨拶文の中でこう記されている。

「春の気配が濃くなって参りました。多くの友人と商品取引所のご支援による『日本の商品取引所』をお届けいたします。戦後取引所の歩みと先物市場の形成の過程をこのような形でまとめました。戦前の大阪・堂島米取引所はあまりにも有名ですが、戦後は繊維、砂糖、小豆でスタートしました。半世紀を経た今では国際穀物、金属、石油、冷凍エビなど大型商品が並びます。21世紀の市場問題を考えるうえでも、相場に勝つ心構えとしても、何らかの参考になれば幸いです」

為田さんは、この本を上梓したあとも、取引所への思い入れは強く、昨年初めには「赤間関米会所の歩み」と題する小冊子が送られてきた。西日本最大のコメ市場と称された赤間関米穀取引所のルーツをたどったもので読み物としても大変おもしろい。

明治35年(1902年)に赤間関は下関と改称され、今日に至るが、当時の賑わいぶりが記されている。

「立会の鐘が鳴ると、各仲買店から、いわゆる場立ちの老練な店員と、連絡係の小僧さんが立会場に集まってゆくのであるが、これとともに、相場をいち早く知ろうとする人々が群れをなして取引所の参観席をギッシリと埋め尽くし、建物の外まであふれていた。やがて“カチッ”と析が打たれて、相場がつくとこれらの群衆が血眼になって八方に散っていった。……そのころ取引所の横を山電(山陽電鉄)の古めかしい電車が超スローでコトコト走っていった」

取引所の前で山電が直角にカーブするため“”ギィー”と車輪のきしむ音が耳に残っているとの証言もある。

「取引所の周囲には、弁当屋、うどん屋、うな重屋、さては泊まりがけの相場師のための宿屋などが軒を連ねて、いつも賑わっており、ことに取引所裏側の路地における雑踏は、上海の南京街でも見るような異様な空気を漂わせていた。当時、関門日日と馬関毎日という地元の二大新聞が、期米の市況記事で経済欄を埋め尽くし、その経営を維持していたのは、そのころの取引所の経済的地位をよく物語っている」

下関を代表する豪商秋田寅之介がコメ相場に手を出して痛い目にあうのもそのころだ。台湾貿易で大儲けした寅之介が、一挙に巨万の富を狙ってコメに賭ける。「馬関(下関)は古くから米相場市場として有名で、米売買に手を出すことは普通、商人の常識で、だれ一人、この道に入らぬ人はいない」(寅之介自伝)といわれるほどのコメ相場どころ。寅之介がやられるのは、相場に曲がったからではなく、腸チフスにかかり、寝込んでいる時に仲買人の裏切りにあったためだ。

いま下関を歩いても、殷賑を極めたコメ相場の痕跡を見出すことはできない。為田さんの後輩である関保喜代氏に往事の賑わいを聞き出すのが精一杯であろう。関さんによると為田さんはスポーツセンターの風呂場で倒れ、そのまま逝ってしまわれたという。第一報に接した木原大輔さんとは防長新聞時代からの付き合いで、「おいタメ」「キーさん」の仲だったという。前出の「日本の商品取引所」の出版に際しては木原さんのアドバイスが大きかったと聞いている。

個人的には、数年前、「マムシの本忠──吉原軍団が行く」をまとめる際、為田さんに再三、電話取材し、歴史に残る関門商取理事長選挙の一部始終を教えてもらったことが印象深い。後にも先にも理事長選はこの1回しか行われなかったが、昭和49年のことだからもう40年近くも前のことだ。本の中には為田さんの若き英姿が収められている。