細江町のはじめ、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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異邦人の絵(岬之町から細江あたりを眺めた絵)

この絵は昭和41年に東都書房から出た『幕末日本異邦人の絵と記録に見る』 エメエ,アンベール、茂森唯七訳という本に載っていたものである。エメエ·アンベールという人はスイス時計業組合会長で参議院議員であった人で、スイス人で日本との条約を結びに来た人である。絵はおそらく写真を見て画いたものであろう。(写真集 明治大正昭和 下関より)(長府博物館蔵の下関沿岸図より)

入江町と日和山(王司山山頂から撮影)

入江町は入江があったのでそうよばれたが、その入江がそのまま見えている。海岸寄りの家は皆倉庫であり、いかに盛んであったかがわかる。後の山は日和山である。真ん中少し上側に白く光っているのが細江の光明寺であろうか。(写真集 明治大正昭和 下関より)

明治時代の細江町の海岸沿い(ふるさと下関より)


下関懐古写真帖 山陽の浜(明治40年) (「関の廓」盛衰史 澤忠宏著より)

細江(写真集 明治・大正・昭和 下関より)  山陽の浜(海峡の町有情より(昭和53年刊))

現在の下関市光明寺下本通りあたりの風景と思われる。大正時代から、この付近には数軒の映画館が立ち並び、繁華街となった。(平原健二コレクション関門浪漫より)

西細江町(大正10年)(「しものせきなつかしの写真集」下関市史別巻より)

細江湾(写真に見る水道90年より)

下関懐古写真帖  馬関駅(明治40年)(「関の廓」盛衰史 澤忠宏著より)

(彦島のけしきより)


参考

① 細江あたりの今昔

1920年(大正9年)  光明寺前の船溜り岸壁

現在の下関市細江町 国道9号線の光明寺前


② 昭和11、15年の細江(彦島のけしきより)

山陽の濱本通り 明治35年に馬関駅(旧下関駅)が開業すると周辺に旅館や飲食店が次々に開業した。夜には海岸沿いに露天が立ち並び、繁栄を極めた。右の建物は昭和7年に営業を開始した山陽百貨店。同13年にはこの道に山陽電気軌道の路面電車が開通する。〈細江町,昭和11年,提供 =北條秀一氏〉(下関市の昭和より)

細江通り(昭和15年) 電車は1938年(昭和13年)頃に敷設された。(目で見る下関・豊浦の100年より)


③ 商業・デパート 時代とともに西へ

右手(細江湾側)が:山陽デパート、後の勤労会館(昭和7年以降)

商店街の核たるデパートを都市の繁栄の一つのシンボルとして、明治・大正・昭和の下関のデパート変遷史をめくってみると、都市の繁栄は西へ、の言葉通りにまさに西へ西へと動いていることに気づく。

百貨店の前身ともいうべき「勧商埸」が最初にできたのは仲之町(当時は神宮司町)の万来館で、明治 九年のことだった。

このあと唐戸、西南部、西之端あたりにでき、いずれも正札販売を行ったが、この中に割り込んできたのが他都市の百貨店出張販売だった。

下関での百貨店の出張販売のはしりは明治四十三年の高島屋だった。場所は岬之町。繊維類を中心にしていたが、その後もたびたび下関で商売、これを見て「下関はいける」とふんだのか、同じ大阪から松坂屋、三越も下関に出張販売にやってくるようになった。

さあ、こうなっては馬関商人の名がすたる。商工会議所は対抗策に百貨店廉売デーなるものを何度となく開催、そうこうするうちにこれが引金となって下関で初めて百貨店と名のついた「関西百貨店」が、大正元年に開業したのである。

関西百貨店の場所は元第一銀行支店の跡地。まだ銀行の建物はなかった。もともと百十銀行があったが、やや西寄りに新築移転したため、その跡に建てたもの。二階建てで、当時としては規模もかなりのもので、入口には噴水を設け、裏には食堂ができて和洋料理を食べさせたという。開店当日は来客が三万人もあった、と当時の新聞は報じている。

百貨店といっても、市内東部の商店主が各店の商品を募っただけで、十年後には店を閉めたが、その後昭和七年十一月、初めての本格的な百貨店,山陽百貨店が、当時の市内の唯一の繁華街、山陽の浜にオープンした(参考)。

今の労働会館の建物がそうで、鉄筋コンクリート六階建て、延べ約二千五百平方メートル。この超モダンな建物が姿を見せると、西細江町一帯に都市計画街路事業が進み、それまで荷馬車のためにホコリのまっていた荷揚げ場がなくなり、以来、この一帯は都市的な姿を現しだしたのである。二百人の従業員、エレベーターを備えた百貨店で、資本金十万円の株式組織。

しかし、実際は久野春之助一族の個人経営で、満州事変から最終的には第二次大戦へと、とめどなく広がった戦争とともに統制は強化し、取扱商品は少なくなるばかり。しかも近くの下関駅は竹崎町に移転するなどの外的要因も加わって、ついに昭和十九年、閉店に追い込まれた。

建物は戦災をまぬがれ、三十一年十月、財団法人·下関労働会館として今日に至っているが、ここ二、三年のうちには、施設老朽化も限界だと取り壊される運命にある。

山陽百貨店に対抗するかのように、半年遅れて丸京デパートも旧下関駅の真正面にオープンした。
構造はいささか粗末だったが中央に広場をとり、これが四階まで吹き抜けになり、一階は土産品がズラリと並んでいた。一時は市民の関心もさそったが、経営不振でわずか二年後には閉店し、建物は下関ホテルになった。

こうして唐戸から細江と西へ移ってきた百貨店も終戦を契機に、さらに西へと移行、戦前は場末といった感じしかなかった下関駅周辺の繁栄時代に突入していったのである。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)(彦島のけしきより)


④ 細江湾の跳ね上げ橋あたり(参考)

昭和11年の船溜り(細江湾)入口の跳ね上げ橋(ふるさと下関より)