下関停車場
下関にはじめて鉄道が開通したのは、山陽鉄道株式会社がその線路を本市まで延長した明治三四年五月二七日のことであった。
明治三一年まず兵庫明石間の開通を見、経営に苦しみながら広島まで延長したのが日清開戦の前日であった。明治三〇年に徳山まで伸び、あとは船であった。
下関停車場
明治三一年一月一日には赤間関停車場の工事にかかり、翌年七月、西細江、豊前田、竹崎海岸の埋め立てに着手し、王江山など崩し三四年三月に完成した。
こうして馬関駅は明治三四年五月二四日に完工し、五月二七日、京都赤間全通開通式が盛大に挙行された。はじめて見る汽車に市民は驚いた。
下関停車場
この写真は、大正元年ごろ撮影であるから、日露戦争ではないし、別に戦争ではないのであろうか。
はじめは下関駅は「馬関駅」と呼ばれたが、赤間関市が明治三五年六月一日下関市となって以来「下関駅」と呼ばれた。三八年九月一一日関釜航路が開かれ、東京、下関間に直通急行列車が走り下関は陸上交通の中心となった。
新装なれる駅前広場の盛観
駅の写真を並べたが、はじめの二枚は屋根の空気窓がたくさんあるがあとの二枚は二つしかない。それに右側に山陽ホテルがみえるが、はじめの二枚は木造であり、あとの二枚は鉄筋コンクリートである。
明治三九年一二月一日山陽線が国有となって、貨客の動きはますます大きくなった。一番手前に見える蘇鉄は現在竹崎町の駅前にある。
ステーションホテル
山陽ホテル(旧)
山陽ホテルといえば下関を代表するものであった。この写真は、明治三五年一〇月に完成し大正一一年七月二六日に焼失するまでの、はじめの木造の山陽ホテルである。
はじめは、山陽鉄道株式会社が持っていたが山陽線の国有とともにホテルも買収されてその直営となり、その後数回拡張された。
山陽ホテル
はじめの山陽ホテルは焼けたので、大正一三年四月一日今度は鉄筋コンクリートのすばらしいものが建った。そのころの山陽ホテルはまたとない花やいだ場所であった。
この写真はアメリカの野球チームが来た昭和一〇年のものでベーブ· ルースのサインもある。
昭和二〇年七月二二日の戦災によって外壁だけを残して焼けた。
山陽ホテルの食堂
山陽ホテルの食堂といえば若い者にとってあこがれの的であった。とくにサービスにあたる女性が紫の、うっかり振袖と書きかけたが、当時をよく知る人に聞くと普通の袖であったそうだ。それほど印象的な姿だったのである。日給一円で三食附きで一番よかった。チップも一円附いた。コーヒーは一杯一〇銭でよく佐藤治さんなどが飲んでいた。
鉄道旅館
鉄道旅館川卯
昔の下関駅前と今の駅前とを比べると昔の方がはるかにすばらしい。駅そのものがすばらしいし、山陽ホテルがあるし、川卯その他の旅館があるし、広さも十分であった。旅館もいろぃろあったが今は ”川卯,だけをあげておこう。川卯は亀山八幡の東側にもあった。
(写真集 明治大正昭和 下関より)(彦島のけしきより)
旅館「浜吉」と下関警察署
奥が下関警察署、その手前が浜吉である。警察署は昭和5年に鉄筋コンクリート造の建築。平成5年に現在の庁舎が隣接地に建てられるまで使用された。〈細江町·昭和50年代 · 提供=谷山昇氏〉(下関市の昭和より)
浜吉が解体撤去され跡地に下関警察署が新築された。(澤忠宏 関門海峡渡船史より)
(彦島のけしきより)
参考