安岡・横野・福江地区のお話し、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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安岡地区

中山忠光暗殺者、福永正介

明治維新の偉業を成し遂げ、強大な権力の座についた長州藩にとって、泣き所ともいうべき触れられたくない 痛恨事の一つに、中山忠光卿の暗殺事件がある。

この事件についてはいくら時勢のせいだとしても、勤皇倒幕の大義名分を掲げた長州藩にとって、天皇直系のやんごとない尊い方を誅し奉ったのであるからいかなる申し開きもできないはずである。

中山忠光の死因については諸説あるが、長府毛利藩の記録では病気で亡くなられたとしてあり、同時に暗殺の行われた田耕村に対して、 一切の口外せぬようにとの布告がなされているのは興味深いことである。

さて福江の八貫という墓地に神陰流剣術十二世師、沿革流棒術九世師の肩書きが入った福永正介という墓があるが、台座に門人中建之とあるから、道場でも開いてたくきんの弟子に教えていたことがわかる。

ところで地元の古老の話では、この福永正介が下手人の一人であって、忠光卿の足を棒で払ったのだといっている。

言い伝えによると、福永正介は十兵衛または十郎兵衛といい、九州の方へ 野菜を売りに出るかたわら、地元の人に剣術や棒術を教えていたが、武士であったので、絶対に他人の世話にならぬ人であった。また二刀流の名人でもあったが彼の腕前を立証する逸話の一つに、道端で草刈りをしていた女を斬ったところが、その女が家に帰って水を汲むため屈んだら首が落ちたという話がある。

それにしても、これほどに腕の立つ達人が、なぜか年中おびえていたということで、村人たちは陰で、彼こそ中山忠光暗殺の下手人に違いないと言い伝えてきたというのである。

中山忠光卿の死については、病死、狂死、過失死、幕府の隠密による暗殺、長府藩士野々村勘九郎による暗殺、そして長府藩士衣類方とこの福永正介など諸説あっていまだに真相が謎とされているが、中山忠光もまた明治維新の陰に倒れた大きな犠牲者の一人であり、尊い身の方であるゆえによけいに痛ましく思われるのである。


ハネツルベのある風景

国道一九一号線を北浦へ向かって走ると、安岡の横野から福江にかけて、海岸近くの台地に、ヤジロベエのような格好をしたハネツルベを何本もみつけることができる。

もともと横野一帯は、寛政·天保年間のころからマクワウリ、アジウリ、キュウリの栽培で評判をとり、明治二十四年(一八九一)には、油紙障子によるナスやキュウリの早熟栽培に成功するとともに、横野ネギや大根の生産に励み、全盛期の明治から大正時代には、国内はもとより朝鮮、満州まで出荷して横野野菜の名をとどろかせたものであるが、そうした野菜栽培の情熱は今でも継承されており、昭和三十三年に古谷三吉氏が、横野ニンジンという緋紅色の夏ニンジンの育成に成功し、その功績により黄綬褒章を受けている。

さて夏の暑さに強く、白根部分が多く美味で有名な横野ネギの栽培は、横野や福江の台地で作られるが、灌漑用水路がないため、深い井戸を掘りハネツルベが設けられており、横野だけでも二百五十の掘抜き井戸がある。農家にとって、夏のひでりにハネツルベの撤水は、いちばんきつい重労働であったので、この地区には嫁さんに来る者が少なかったといわれている。

海風のそよぐ台地に、黒いシル工ットを見せて点在するハネツルべの風景は、安岡地区だけにしか見ることのできない珍しいものであり、そうした苦しい労働をよそに、のどかな美しい風物詩を描いている。

ところでハネツルベによる揚水も、今は動力のポンプに代わり、長いホースで撤水されるようになったので、ヤジロベエのハネツルベは全く無用のものとなり、夕映えの牧歌的な田園風景をかき乱すように、動力ボンプがけたたましくこだまする中で、しょんぽりとうなだれたハネツルベの長い孤影が、迫りくるたそがれの闇にひっそりと淋しく沈んでいくのであった。


哀愁の久留見ケ瀬

下関市内の雑踏を通り抜け国道 一九一号線を北上すると、横野から福江にいたる沖合に、久留見(くるみ)ケ瀬とよばれる無人灯台の建った小さな瀬がみえる。

この瀬はいつも海面の下にかくれ、干潮のときだけ平らな岩礁をさらすが、かつて竜宮島という大きな島国であったのが沈んだのだと伝えられている。いまから何千年も昔のこと、この竜宮島に玄海王という横暴な王が住んでいた。

ある年のこと、王の命令で月見の望楼が築かれることになり島中の若者がかり出された。島に結婚して間もない若夫婦がいたが、その夫も強制的に連れ出され、夫は庭の楡 (ニレ)の木を指して、この梢に青葉が無繁るころには必ず帰って来るといって出発した。しかし、楡の木に青葉が繁り、望楼も完成し、秋になって黄葉を散らすころになっても夫は帰って来ないので、妻の久留見は愛する夫の肌着をつくり、城に向かったが夫を見つけることができなかった。

ある日一人の老人から夫が望楼の人柱になったことを聞き、歓き悲しみ泣き明かした。その彼女の美しい顔 にひかれた家来の一人が、久留見を玄海王の後宮に献上しようとたくらみ、無理に城に連れていった。承諾しなければ危ないと感じた久留見はある計画を思いつき、夫を丁重に供養してくれれば承知すると答えたので、国中をあげての盛大な法要が営まれた。

そしてそのあとで彼女は望楼から海に向かって身を投げたのである。それ以後不思議にも、一日一日と大きな竜宮島は海に没しはじめ、遂に玄海王国は滅び、今のような小さな瀬になり果ててしまったのである。

この伝説を読むと私は歌劇トスカを思い出すのであるが、また万葉の昔、東北から徴発され九州の守りについた防人(さきもり)や、響灘に遭難した漁師の妻たちの悲しい思いが、この悲劇の伝説のもとになっているのではないかと想像するのである。

いつもは紺青の海に白波のさわぐ久留見ヶ瀬であるが、今日はまたおだやかな夕日になぐさめられてか静かに岩肌を横たえ、夕映えのさざ波が久留見の挽歌を奏でるようにささやき、海どりの声がわびしくひびいて美しい 落日を惜しむのであった。

注意
これは戦後作られたお話しで、物語作家の創作であり、地元の福江や横野辺りの人々は全く知らない。


地蔵・行者の道しるべ

安岡から川棚を結ぶ農免道路は山あいを通り抜ける緑の涼しい道路であるが、安岡からの取付部分に三角地帯があって、農道竣工の記念碑があり、碑の反対側安岡寄りの木立の中に、福江の林へ通じる道があって、ここにたいへん変わった像がある。

それは、頭はお地蔵さんで、あごにはひげを生やし、手には巻物と錫杖を持っているようであり、足には一本歯の下駄をはいておられ、いうなれば首から下は行者の姿である。この行者というのは、山伏の元祖とも親分ともいうべき役行者(えんのぎょうじゃ)の像である。

いつかの時点でこの頭がもがれ、のちに村人の厚い信仰となさけによって首が継がれたのだが、元の行者(頭には頭巾をかぶりひげを生やしていたはず)の顔が見つからなかったのか、はじめの姿がわからなかったのか、ひげのないお地蔵さんのまる顔がすわったのである。

村の入口に安置され、地蔵さんと行者の二人の強い法力によって、悪魔も病気気も退散し、村は安奏であったかもしれぬが、それにしてもおもしろい組合わせである。

また台座には「右せき左長婦江」とあって道しるべも兼ねており、天明三年(一七八四)とあるから古いものである。昔は海岸の道がなかったはずであるから、吉見以北の北浦からの人びとが、ここから関の町へ、あるいは長府の城下町へ向かったことがわかる。

役行者の像がなぜここに安置されたのかその由来はよくわからぬが、この地城一帯を「行者原」と呼んでいるのが何か関係がありそうである。

村の入口の分かれ道にあたり、庚申や道祖神の役目もしたこの合体の像に、地元の人びとは今も深い信仰を捧げ、供えられた花がすがすがしい。

木陰の向こうを時どき、乗用車が狂ったような騒音を残して疾走するが、木立の中はいよいよ静かである。

注意
この地を「行者原」と呼ばれていたことは誰も知らない。小字の地名は「畑代」であり、この役行者像は「お地蔵さん」と呼ばれて愛されている。


深坂自然公園歩道

安岡深坂の池は、農業用水に利用のため大正年間につくられたもので、下関市内に点在する数多くの池の中でも、代表的な美しい池である。

池の周りの遊歩道をたどって行くと、土手下の小さな満には冷たい 水が苔むした小石にしたたり、涼し気なシダの葉にミズトンボが遊んでいる。禁猟区に指定されているのでいろいろな小鳥が多く、あわてる様子もなく道を横切って行く。

竜王山麓から流れこむ北側の清流には、ところどころ野生のツバキが見られ、身をよじらせたような枝ぶりが、山から吹きおろす風の強さを物語っている。満々たる水面に映った山影はどしりと動かず、山、水ともにみどりに染まってすばらしい。

この深坂自然公園は、ことしの三月に中国自然遊歩道の一部に指定され、池に沿って左へ進むと、竜王山への新しい登山道が開かれている。自然然公園の名のとおり小島や昆虫も多く、また植物の種類も多い。池に従って右手の新道を進むと、内日一ノ瀬の下の水源池に通じている。

国鉄や山電バスの安岡駅から、あるいは園芸センターから約四キロ程度の道のりなので、家族ぐるみで歩いて行くにも楽しく、またアベックで秋の七草を求めてさすらうのも一興であろう。


安岡資料館(旧下関市役所安岡支所)

昭和四十年頃から発掘調査が統けられていた綾羅木郷遺跡が、昭和四十四年三月八日、突如十一台のブルドーザーにじゅうりんされ破壊された。この事件により、急きょ国の緊急史跡指定を受け保護されたことは、まだわれわれの記憶に新しいところである。

その後、発掘作業の方は昭和四十六年に完了し、国内では初めて発見の陶けん(土笛)や、おびただしい土器、石器、食物残滞などが採掘され、西日本最大の弥生遺跡としてその学術価値が立証された。

今、安岡横野にある資料館を訪れると、郷台地から発掘された土器の破片がビニール袋につめられ、廊下や各室の棚にぴっしり並べられている。この土器群は大型トラック八台分もあったもので、ビニール袋にして教千袋あり、一袋に二、三十片入っているから総数としてはぼう大な最である。袋にはローカスナンバー(発掘地点、遺構の符号) とバスケットナンパー(出土した遺物の順序番号)が記入してあり、袋の中の土器破片にも一連番号がつけられている。

現在、始原文化研究会の手により着々と土器の復元作業が進められ、既に数百個以上を復元したが、まだほんの氷山の一角であり、この作業は何十年かかるか予想もつかず気の遠くなる話である。

日本全国に名をとどろかせた郷遺跡破壊と保全、そして発掘完了のあとを引受け、このおびただしい土器のかけらと取組み、苦労しながら復元作業を進めているこれら陰の人たちの労苦を、われわれ市民は忘れてはならないと思う。

またこれらの土器は今からざっと二千年も前の人たちがつくったもので、当時の人たちの生活のにおいがしみついており、その人たちの指型のついたかけらもある。

薄時い廊下や倉庫に山積みされたビニール袋の海の中を泳ぐようによぎると、その中で土器のかけらが、ひそやかにぶつぷつ語りかけているように思われ、千年前の声が、かすかに聞こえてくるような気がしてならな無い。


梶栗浜遺跡

国道一九一号線、梶栗のバス停から山手に向かって五分ばかり歩くと、国鉄山陰線の線路わきに石棺が置かれてあり、そのそばに「梶栗浜遺跡」と彫った記念碑が建っている。

この遺跡は、大正二年(一九一三)、長州鉄道敷設工事のとき、箱式石棺とともに、多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)と細形銅剣二本が出土して、学界から注目されたものである。

多紐細文鏡の「紐」とは「ひも」のことで、鏡を吊すためのひもが、たくさ ん(二つ以上)ついたこまかい模様のかかれた鏡という意味であり、弥生時代から古墳時代にかけて大陸から渡来したもので、国内で発見されたのはわずか四面しかないという貴重なものである。

鏡は今でこそ日常生活になくてはならぬものだが、現在のように姿を映すために用いられたのは、江戸時代からだといわれ、もともと古鏡は祭配 の神宝 として大陸から伝えられたもので、後世になってから豪族の権威の象徴として所持されるようになり、邪馬台国の女王卑弥呼などは、古鏡を宝物として百枚も持っていたといわれ、銅貨と同じように、のちには輸入品だけでは足りなくなって、日本国内でも作られるようになったのである。

ところで、せっかく梶栗から発見された二千年前の貴重な鏡であり、下関の誇る文化財であるが、地元の者は容易に拝見することができない。

それは発見された昔に、国の手によって管理され、重要文化財として、今は東京上野の国立博物館に保管陳列されているからである。

数年前、地方巡回として県の博物館に展示されたのをはじめて観覧したが、下関から出土したものであるのに、陳列できないのは、たいへん口惜しく残念であり、一日も早く地元に返却されることを切望するものである。


(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)